「無理しないでね」「燃え尽きるよ」 という人は多分その人自身が物事において無理してやっているのだろう。私自身は決して無理ではなくむしろ夢中になってる上にかなり楽しんでいるというのに。人の感覚は人それぞれだから仕方がない。その人の言葉に飲み込まれることなく自分の生活をしていくだけ。
久しぶりに全身がカタカタ震えた。緊張と恐怖と使命感に挟まれて苦しんだ後の達成感と安堵感の際に全身がカタカタ震えた。ただただホッとした。高揚感までいくにはエネルギーが不足していた。その影響で腹が下った。もういい年だけれど繊細過ぎて自分でも驚く。でも上手くできてよかった。ありがとう。
誰かが責任を押し付けてきてもまともに受け止める必要はない。 自分の責任から逃れたいために人のせいにしたいだけだから。 誰かがそんな場面にあった時にもそんなことに悩む必要はないときっぱりと言葉で伝えることが大切。 その人が今後悩み続けないように。 人の責任まで抱えなくていい。
繊細でちょっとしたことを気にする。 猫の表情からも気持ちを想像して謝ってばかりいる。 いろんな状況から推測した感情の言葉が自然に溢れ出して止められない。 その後どうなりどう思うのかも想像もしてしまう。 すると想像の世界がずっと続いていく。 同じように感じる人を見つけると嬉しい。
いちばんおそれ自分を傷つけるものは自分自身の罪悪感。人から何かをされたら人を責めることができる。でも自分自身を責め続けるのは、その責める自分自身をまた責めることになる。悪循環は止まらなくなる。もう自分を責めることはしないでその時それなりに頑張ったことを認めよう。自分を解放しよう。
こうしなくてはと焦る気持ちとうまくはいかないと自分を責める気持ちが同時にあり続ける時人は憔悴しきっていく。全部を自分でやらなくてもいい。少しずつでいい。やらなくてもいい。やり方を変えてもいい。人に頼んでいい。頼っていい。 できなかったことに目を向けずになんとかしてる自分を認める。
この世界を生きていくことは多くのことを理解できればするほどに困難がより鮮明に見えてくるので難しくなる。 しかし どう選択するか どう捉えるのか どう行動するのか が見えるようになると 困難が困難でなくなる時がくる。 恥をさらしながら生きていく。 堂々と恥をかく。 それでいい。
障害のある人が、無理して頑張らなくていいような社会になってほしい 健常者達は、配慮次第でどうにでもなるって感じで障害者の頑張りを促す感じがある だが、それが辛い人や能力の低い仕事をしてる人も少なくない 私は段々と疲れを感じるようになってきた 障害者が健常者に合わせる社会になってる
何かにたどり着かなきゃいけないような 立ち止まることを許されないような そんな焦りに やっと目を閉じることが出来た気がして 僕は 今 この世界で息をすることを 気付かぬうちに 静かに受け容れようとしている そして それは多分、 諦めとは違うんだと そんな事を思っている