意味もよくわからないままに、 口ずさんでいた歌。 何を言っているのか さっぱり分からないけれど、 聞いていた話。 なぜか、 目が離せなかった絵。 背伸びして読んだけれど、 読み難いばかりだった本。 ある日突然、 そういうものを思い出して 「あぁ」 となることがある。 つい最近も、そんなことがあった。 こういうことがあると、 今の自分にしっくりくるものだけではなく、 色々なものに触れることって 無駄じゃないんだなと思う。 わからないことは わからないのだから、 無
私は生まれてからずっと、ほぼ同じ地域に住んでいる。 厳密にいえば、数年だけ仕事の都合で別の場所に住んでいたこともあるのだけれど、基本的には同じ地域在住。 こんな風に、ずっと一定の場所で暮らしていると、 言葉ならどれが方言で、 お店ならどれがローカルのお店で、 食べ物ならどれがローカルフードなのか、 特別意識することがあまりない。 名物としてプッシュされているとか、極端に地域性の強いもの以外は、誰かに指摘されない限り、よくわかっていないようなところもある。 そのため、仕
古ーい、穴あけパンチをもらった。 年季が入りすぎのこちら、 くださった方によると、どうやら 昭和の真ん中くらいの時期のものだそう。 すべての部品が鉄で出来ているため、 まるでペーパーウェイト(文鎮)かのごとく 凄まじく重い。 その上、触ると 鉄棒を握った時のような あの懐かしい鉄臭い匂いが、 かなりしっかりと手に移る。 実際に使ってみると、 サクッと穴をあけるというよりは、 メリッと穴をあけているような感覚で、 そこそこ力が必要だ。 しかも、紙も微妙にくしゃりと折れ
今週に入って急激に気温と湿度が下がり、 今年もいよいよ静電気の季節がやってきた。 冬は寒いのももちろんつらいのだけれど、 私にとっては静電気が何よりつらい。 思い起こせば小学生の頃から、 寒い季節は何かを触るたびに バチッという音と白い火花を散らしてきた 根っからの静電気体質。 友達に面白がられて、 いろんなものに触らされては、 とにかくバチバチさせてきた。 こんな風だから、 毎年冬になると金属製のものは 先に一旦ひじや腕で触ってからでないと 恐ろしくて素手で触れない。
こころの中にあることを。 思っていることを。 言葉にして伝えるのって、本当に難しい。 たとえば、 言葉がさんかくの形をしていて、 こころが四角の形をしていたのなら。 四角いこころのすべてを、 さんかくの言葉で表すことなんてできるのだろうか。 でも表したいと、伝えたいと思うから。 さんかくを大きくしたり小さくしたり、 パズルのように組み合わせたりして、 四角を表現しようとするのだろう。 こころの中にあること。 思っていること。 ありのままを伝える必要があるのかは わか
おとといは満月だったから、 夜空に光る月を眺めようと ベランダに出たのだけれど、 空一面曇っていて、 月を見ることができなかった。 夜空を見上げると いつも頭の中で流れる曲がある。 切なくかすれた声で歌われる この曲を初めて知った(聴いた)のは、 いつかの月の綺麗な日のラジオ。 年々、聴けば聴くほど 胸の奥に響いてくる曲だなぁと思う。 夜空に光る 黄金の月などなくても。 結局その日は 真夜中に目が覚めて、 窓から光る月を見ることができた。 (眠っている間に晴れたみた
仕事に行く時は、 お手入れがしやすくて失礼のないものを。 お出かけをする時は、 好きなお店の好きな服で少しお洒落を。 家にいる時は、 少しゆったりめのルーズなものを。 いつもだいたい、そんな服装をしている。 元々、体のシルエットを拾いすぎるような ぴたぴたの服を着るのは、 あんまり好きではないのだけれど、 家にいる時は特に、 ルーズなものを選んで着ている。 洋服には、気持ちにもたらす効果が あるのだと聞いたことがある。 それによると、ルーズな服は 大きなもので体をふん
人口が減っていると聞いて久しい。 それなのに、 なぜだかどんどんと開発されていく街。 私の住む街でも、 戦後に建てられた趣のあるお洒落なビルが、 老朽化により次々と取り壊され、 ぴかぴかとした背の高い巨大なビルに 姿を変えていっている。 このぴかぴかが老朽化する頃には、 一体世の中は どんな風になっているのだろう。 きっとその頃には私はたぶん もう生きてはいないだろうから、 見届けることはないのだろうけれど。 昔の人も、変わりゆく街を目にして こんな風に思ったのかなぁ
目覚めた瞬間、 今日が土曜日だと勘違いして 一瞬だけとてもしあわせな気持ちになり、 ふとまだ金曜日だったと気づいて テンションが地を這うようだ。 思えばわたしは昔から、 休みの日に特別何があるわけではなくても、 休みの日を心待ちにして 生きてきたようなところがある。 いつも通り、 無意識のルーティンと化した コーヒーを入れる作業をして 好きな香りに包まれながら、 “今日一日、がんばるかぁ…” と、なんとか自分を奮い立たせている 金曜日の朝。
ふと気づけば、11月中旬。 ということはあと数週間もすれば12月。 今年も私にとっての、 ジンジャーエールの季節がはじまる。 12月といえば忘年会のシーズン。 そんなに数は多くはないけれど、 例年、私もいくつか参加している。 しかし私はあまりお酒に強くないので、 お酒を飲む場では、代わりに ジンジャーエールを飲むことが多い。 無難に、烏龍茶を頼めばいいのかもしれない。 けれど、なんとなくビジュアル的に ジンジャーエールを飲んでいた方が 場に浮かないような気がするし、
noteをはじめてから、以前よりも 色んな文章が目に留まるようになった。 通勤中に見掛ける電車の広告や、 お店のポップなんかも、無意識に 前よりもよく見るようになった気がする。 ある時会社のお昼休みに、 その辺に置いてあった 無料情報誌を読んでいたら、 少し気になったページがあった。 多分わざとではないのだけれど、 1ページの中に“ほんのり”という表現が 4回も使われていたのだ。 その言葉が使われていた ひとつひとつの事柄は、 確かに“ほんのり”と、 それはもう“ほん
朝ごはんは、トーストを食べることが多い。 以前は食パンを焼くだけか、何か塗るとしてもバターかチーズをのせるくらいだったのだけれど、数年前からジャムを塗るようになった。 こどもの頃の私にとっては、ジャムといえば、スーパーによく売られている甘い甘いゼリー状の真っ赤なあのいちごジャムだった。 あれはあれで好きだったのだけれど、あんまりにも甘いので、気づけばいつの間にか手が伸びなくなっていた。 しかし大人になり、ジャムというのは、私のイメージしていたあの真っ赤なゼリー状のもの
週末、ひたすらに音楽を聴いていた。 私にはたまに、こんな風に なにかにどっぷりと浸かる時間が 必要なのだと思う。 それは別に音楽じゃなくても、 本を読むのでも、映画を観るのでも、 どこかに出かけるのでも、 誰かと話すのでも、 なにかを眺めるのでも、 逆になんにもしないのでも、 なんでも良い。 とにかく、日常のあれやこれや、 やらなくてはいけないこと、 やっておいた方がいいようなことから、 強制的に自分を切り離すような時間が必要だ。 そうじゃないと、 大きな流れに流され
こどもの頃、家から歩いて行ける距離に、 おしゃれで美味しいドーナツ屋さんがあった。 ショーケースに並ぶ たくさんのドーナツの中からひとつを選んで、 まるでアメリカ映画に出てくる ウェイトレスのような かわいい制服を着た店員さんに注文をする。 すると店員さんがそれを、 オレンジ色のラインが入った クリーム色の丸いお皿に乗せて、 席まで運んでくれる。 私は、店内の焦茶色の木製の机と、 少し背の高い椅子に腰掛けて食べる、 そのお店のチーズマフィンが大好きだった。 今でも時々
小さな頃から、 アスファルトと建物に囲まれた、 どちらかといえば 空があんまり広くない景色の中で 暮らしてきた。 親も近くの出身だから、 祖父母の家に行っても、 景色はそれほど変わらなかったし、 普段の生活で目にする緑も、 公園や庭などの、 誰かに管理されたものがほとんどだった。 その反動なのかもしれないし、 そうではないのかもしれない。 大人になってから、 遮るもののない広い景色を見ると、 なぜか涙がこぼれてしまうことがある。 胸がいっぱいになるような、 びりびり
ここのところ仕事で、年次の若い 社員の相談に乗ることが続いている。 こういう時に こちらがとるべき対応というのは、 研修や書籍、実践で学びはするけれど、 私にとってはまだまだとても難しくて。 正解がよくわからないまま、 いつも手探りで向き合っている。 自分自身、外身も中身も 日々めきめきと成長していた 学生の頃と比べると、 社会に出てからは、 自分ではそんな劇的に何かが 大きく変わったという感覚はない。 けれど、彼らの相談に乗ったりすると、 いつもとても懐かしいような