「私」の中には、家庭や職場といったあらゆる立場の配慮的な気遣いをする私とそれ以外の私が存在する。私の世界は、この配慮的な気遣いによって認識された世界に心を奪われているのである。私とは、そのときどきの立場で閉じ込められているおのれの内面から出てゆかず、常に「外部」に存在している。
あらゆる立場で配慮的な気遣いをする私は、その人間関係が置かれる環境という名の空間(物体性)において基礎づけられている。 固有の内部で出会われた存在者と事象が運命づけられている現実と認識したとき、人ははじめて私を悟るのである。同時に存在者と空間性を見抜く洞察が可能となる。