◆読書日記.《細川亮一『ハイデガー入門』――シリーズ"ハイデガー入門"7冊目》
※本稿は某SNSに2020年8月23日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
細川亮一『ハイデガー入門』読了。
著者はドイツ、アメリカに留学して哲学を学びハイデガー全集の翻訳も行っている根っからの哲学研究者。九州大名誉教授。
その著者が本書の入門書として取ったスタンスとは「ハイデガーを読まずとも『存在と時間』の内容が分かるハイデガー思想の要約」ではなく「ハイデガーを読むための準備」にあった。
という事なので本書ではハイデガー思想の全てを網羅しているわけではない。
あくまで著者は、ハイデガーを知りたくば、自分の目で見て考える事が必要だと説く。
しかし、ハイデガーの訳書は、翻訳の仕方についても評価の分かれる非情に微妙な言い回しになっている事が多く、初心者が誤読を避けるのは困難にも思える。
というのもハイデガーは言葉に敏感な思想家で、彼の関心の中心を占めていた古代ギリシャ哲学を解剖するためにしばしばアリストテレスやプラトンの原著からラテン語を引っ張り出してきて検討・分析をしていた。
そのためハイデガー思想を理解するにはそういったドイツ語やラテン語も理解する事が理想だったのだ。
そういう事情もあるため本書でもハイデガーの著作から、しばしばハイデガー自身が検討し、頻繁に利用していたハイデガーの重要概念をラテン語やドイツ語の単語の意味から検討していくというやり方をたびたび採用している。
かといってラテン語やドイツ語が出来なくては本書を理解できないといったわけではない。
あくまでハイデガーを実際に読むための予備知識であり準備体操として、重要概念の正しい捉え方、正しい考え方を教え、ハイデガーまで導いていこうというのが本書の趣旨となっている。
勿論、用語解説だけならば他の入門書のほうが網羅的なものがあるが、本書の場合はわりとピンポイントというイメージがある。
何処に焦点を絞っているかというと、ハイデガーの中でも翻訳のうえで誤解されやすい単語や概念、ややこしくて誤読し易い概念、といった所のようだ。
こういった躓きやすい箇所を修復していく事によってハイデガーへの道を切り開く、本当に「ハイデガー思想へと導く道しるべ」としての役割を負っているようだ。
◆◆◆
本書で特に何度も念入りに説明しているのが「woraufhin」というドイツ語である。
これは日本では「それを基盤とするそれ」と訳され、単に「基盤」と訳される事もあるそうだが、著者から言わせればこれは「基本的な誤読・誤解」なのだそうだ。
特にハイデガーの存在テーゼを理解するにはこの単語を誤解してはいけないという。
「woraufhin」は著者によると「それへ向けてのそれ」と捉えたほうが正しいという。
「auf...hin」は「……へ向けて」という方向を原義としており、評価や行為を導く視点言い表す」。
「存在が"ある"」は、ハイデガー的には「理解の視がそれへと向かい、そこから存在者を理解する視点」という事となる。
そして存在テーゼを「woraufhin」で言い表せば「存在者がそのつどすでにそれへと向けて理解されているそれ(woraufhin)」と捉えなければならい、というのが著者のテーゼでもある。
因みに、この考え方と「志向性」との相同性がハイデガーをフッサールに近づけた理由の一つではないかとぼくは見ている。
そして、日本における戦後のハイデガー理解の中ではどの研究者も指摘しているのが、『存在と時間』は「実存主義」的な内容ではなく、ハイデガー思想についても実存主義的な考え方は持っていなかったという事。
WWⅠ後のドイツで『存在と時間』が若者に多大な影響を与えた理由は偏にこの「誤解」からであった。
これについてはぼくも何度か過去に説明しているが、ハイデガーが『存在と時間』の時期から一貫して追及していた問題とは「存在への問い」であった。
この「存在への問い」を通して古代ギリシア思想を取り返し、それによって西洋の伝統的思想を根本から覆すという構想が『存在と時間』からの問題だったのだ。
『存在と時間』というタイトルからも分かる通り、ハイデガーは「存在」を「テンポラリテート(時間性)」から捉えなおす事を試みた。
というのも、西洋の伝統的思想のコンテキストでは、プラトン『ティマイオス』からなる「止まる今」を源泉とする「永遠性と時間」という考え方が流れていたからだ。
この「止まる今」という伝統的な考え方をハイデガーは覆す事で、近代のドイツ観念論で頂点を迎える西洋伝統哲学の思想の超克を狙った。
そもそも形而上学が問題とする「存在の本質」の問題というのは、テンポラリテート(時間性)が欠落しているという特徴があった。
四則計算に「時間の経過」の要素を入れないのもその為だ。
自然法則の中でも「数値関連のイデア」のみを引き出してきた数学というのは、「1個のリンゴと2個のリンゴを足すと全部で何個になりますか?」という時に「時間経過」を問題としない。
「数千年経てば今あるリンゴも風化して無に帰する」みたいな考え方をせず(笑)、全て数値上の操作という「本質」のみを考える。
「木の本質」は「西暦何年何月何日の木なのか?」という考え方をしないし、「石の本質」は「西暦何年の何月何日にどのような状態にあった石の事なのか?」という捉え方をしない。
西洋の伝統的な「存在の本質」の捉え方は、あくまでテンポラリテートを欠落させた「止まる今」の事に焦点をあてているのである。
この伝統的な捉え方はヘーゲルの「絶対的現在」にも至っている。
「永遠でありそれゆえまた絶対的現在。永遠性は「あるだろう」でも「あった」でもなく、永遠性は「ある」」。
ヘーゲル的には論理学も絶対的現在、現在としての永遠性としてある。「〇〇である」にはテンポラリテートは抹殺されねばならない。
そういう西洋の伝統的な存在の本質観を覆すためにも、ハイデガーは「存在の問い」について、『存在と時間』によってテンポラリテートを復権させようと考えたのだ。
そのための第一段階として、ハイデガーは『存在と時間』の中で「現存在(人間)」の分析論から存在者の謎について追及していくという戦略をとる。
何故かと言えば、様々な存在の中で現存在のみが唯一存在の事を理解し、それを語り、開示している。
だからこそ現存在を分析すれば、現存在が理解している存在の謎が理解できるのではないか、というロジックで『存在と時間』は成り立っているのである。
「不変的存在論が存在一般を探求するとすれば、存在一般を理解してる現存在を分析することによって、普遍的存在論への道が開かれるだろう。現存在に存在理解が属しているからこそ、存在論の基礎である基礎的存在論は現存在の分析論として展開される」――(本書P.131より引用)
ハイデガー存在論は基本的に存在者の存在を認識する現存在(人間)の立場から成される。
これは例えば実証科学的な認識である「いかにしても観測できないものは、定義できない。よって存在しない」と相同的なものと言えるのかもしれない。
ハイデガーの存在論では、恐らく「観測」は重要なのだ。
ハイデガーの現象学の考え方に「現象は光のうちで視られうる」というのがある。
これは『存在と時間』の存在論にもそのまま当てはまる考え方だが、この「光」というのは有名なプラトンの「光の比喩」から来ている。
存在が理解されるという事は「理解する主体」と「理解される対象」があり「理解するある種の基準」があるという事となる。
見るものと見られるものがあっても「光」がなければ見る事は出来ない。
これは単に「見る」という行為だけの事を言っているのではなく、理解や思惟についても同じ事なのだ。
花を見て「美しい」と感じるためには、「花を見る人」と「見られる花」だけがあればいいというわけではない。
「"美しい"という何かの価値基準」があり「"美しい"という何等かの本質」がなければ、そもそも「美しい」等とは思わないのだ。
この基準や本質のことをプラトンは「光」という比喩で語ったのである。
では、存在が理解されるにはどのような「光」がなければならないのか?
それをハイデガーは「時間」に求めたのである。
ハイデガーはこの事を「脱自的時間性が現を根源的に明るくする」と表現した。そのために存在というものは「テンポラリテートの光」の内にある。時間が現存在の「現」を明るくさせる。
テンポラリテートの光の内にある現存在の明るさによって存在は理解されている。
これがハイデガーの言う「現象は光のうちで視られうる」という事となる。
こういった「テンポラリテートの光の取り戻し」が『存在と時間』の中では「現存在の本来性」という言葉で語られる事となる。これが誤解の始まりだった。
現存在に「テンポラリテートの光(時間性)」を取り戻させる事が、現存在を「本来性」へと立ち戻らせる事になる、という事は具体的に生のリミットである「死」を自らの可能性として開示する。
そして自分自身という者は「自己に先立って世界の内に既に存在している=気遣い」を意味しているとする。
未来を「到来(自分の目指すべき可能性)」として、過去を「既在(これまでの自分を引き受ける事)」という、現存在(人間)の「時間性」の取り戻しという、この部分のみを重要視、あるいは拡大解釈してしまうと、確かにサルトルのような実存主義的な考え方であるかのように思えてしまう。
しかも、『存在と時間』は現存在分析の時点まで執筆してから中絶してしまったので、余計この部分がクローズアップされてしまい、更にその実存主義的(に見える)考え方が、当時のドイツの若者らにたいへんな影響を与えてしまった。
これが『存在と時間』を巡る「誤解」の経緯であった。
ハイデガーにおける『存在と時間』の構想の意図はそこにはなく、あくまで現存在分析は、その後に続く存在分析のための布石に過ぎなかった。
存在の謎は「存在を理解する存在」たる現存在の理解を通して得られる。
そして中断された『存在と時間』の後編は、時間性の問題を踏まえて西洋の存在論の歴史を遡り、最終的に古代ギリシャのプラトン~アリストテレスの論考に至るという構想になっていた。
ハイデガーの狙いは最初から「現存在(人間)」ではなく、現存在も属している存在についての問いを改めて古代ギリシャまで遡って問い返す事にあった。
以上のように本書では、今までに存在していたハイデガー理解を拒む様々な誤解や誤読に修正を加え、自分の目で見てハイデガーを理解し、ハイデガーをきっかけとして、あくまで自分自身の頭で考える事を促す「哲学入門」でさえある内容であった。
という事で思想・哲学やハイデガー思想については全くの素人で前知識が全く無い状態で本書を読むと若干難解さを感じるかもしれない。
だが、竹田青嗣『ハイデガー入門』や木田元『ハイデガーの思想』という第一段階を読み終わって第二ステップとして丁度良い問題意識を持った良書とも評価できるかもしれない。