◆読書日記.《木田元『ハイデガーの思想』――シリーズ"ハイデガー入門"5冊目》
※本稿は某SNSに2020年3月1日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
木田元『ハイデガーの思想』読了。
実に分かり易い平易な解説と実に手際のよい纏め方で優れたハイデガー入門書だった。
本書はハイデガーの生涯を順に追いながら、その思想の変遷を解説するというスタイルのハイデガー思想の入門書。
分かり易さは竹田青嗣の『ハイデガー入門』に匹敵しそうだが、情報量は竹田さんのほうが優るか。
木田さんの特徴はハイデガーを「アリストテレス学者」であり「哲学史家」として紹介するという観点だろう。
竹田さんの『ハイデガー入門』はハイデガー思想のカンどころをバランスよく解説しようというバランス感覚が働いているが、木田さんの本書の場合は「アリストテレス学者」であり「哲学史家」という本質を持ったハイデガーが、彼の生涯のテーマであった「存在」の謎をどう取り扱ったかという点に絞って説明している。
ハイデガーの主著『存在と時間』についても、前半部分のみが出版された時点で大きな影響を与えたのはハイデガーの「現存在=人間」の謎に焦点をあてた「無神論的実存主義」的な考え方だったが、『存在と時間』の場合、ほんとうに重要だったのは書かれずに断念された後半の部分であり、そこで展開されるのが古代ギリシャ思想という予定だった。
つまり、ハイデガーは『存在と時間』の執筆時点で、その著書の重要点を古代ギリシアの「存在」観に立ち返る事に焦点を絞っていたのである。
後年発見された『ナトルプ報告』でも、『存在と時間』が脱稿される前に構想していたタイトルが『アリストテレスの現象学的解釈』だったと判明している。
では、ハイデガーによれば古代ギリシアの哲学者たちは「存在」どう見ていたかと言うと、それを「本質存在《エッセンテイア》」と「事実存在《エクシステンテイア》」に分けて考えていたのだと説明する。
プラトンの考え方だと、<イデア>に基づけられた「本質存在」が、具体的な形をとって「事実存在」としてある、という見方。
そのために西洋の伝統的な哲学は「事実存在」よりも「本質存在」のほうを「何なのか」と問う「形而上学=超自然学=メタ-ピュシカ」が哲学(フィロソフィー)の中心となった。
それを逆転して「現実存在(=実存)が本質に先立つ」という「事実存在の優位性」を主張したのがサルトル等の「実存主義」となった。
サルトルはこの「無神論的実存主義」の先駆者をハイデガーだとしたが、ハイデガーはその見方には否定的だったそうだ。
ハイデガーはそう言った、事実存在と本質存在との優劣関係を逆転させても、それはまた別の形而上学になっただけに過ぎないのだと考えていたのである。
ハイデガーはサルトルの主張に対してもあくまで古代ギリシア主義を主張する。
古代ギリシアの「存在」観はプラトンが「本質存在」と「事実存在」に存在の内容を分けてしまった以前の状態――「始原の存在」「単純な存在」「自然(ピュシス)」――その状態に戻って問い返すことが重要なのだというのである。
木田元の解説では、日本語に置き換えれば「本質存在」は「〇〇である」という存在の見方、「事実存在」は「〇〇がある」という存在の見方に近いと思うと分かり易いそうだ。
つまり、西洋人が「存在」と言った場合は「〇〇である」という「本質存在」のほうを言っていることのほうが多いのだそうだ(特に哲学では)。
それに対して我々日本人が「存在」と言った場合「〇〇がある」といったように「事実存在」のことを言っている場合のほうが多いという。
なるほど、そうなのかもしれない。
ハイデガーは西洋の伝統的哲学を占有してきた形而上学の考え方を転倒させるには、この「事実存在」「本質存在」という見方それ自体を克服しなければならないと主張しているわけだ。
ハイデガー流の「西洋の伝統的形而上学」を克服するために取るべき戦略と言うのが、「西洋の伝統的形而上学」の初端となったプラトン的思考の以前に存在していた古代ギリシアの「存在」観である「単純な存在」という考え方に立ち返る事だったのだ。
『存在と時間』で執筆が断念された後半部分の内容は、『存在と時間』出版後に行われた講義でその内容が徐々に明らかにされていった。
プラトンとアリストテレスによって基礎付けされた西洋的な伝統的形而上学の考え方は、存在を「事実存在」「本質存在」に分類し「存在の本質」を問う形でどんどんと進化していき古代ギリシアにあった「始原の存在」観から遠く離れた「存在忘却」の状態に陥っていった。
この「西洋の伝統的形而上学」は、ヘーゲルによって完成する。その西洋哲学の「存在の歴史」をアリストテレスの時代まで遡行していきながら明らかにし、その思想を転覆させること。
そのための戦略として、アリストテレス思想以前にあった古代ギリシア思想に立ち返り、その「始原の単純な存在」観を問い返す。
これがハイデガーの『存在と時間』の後半部分の構想であり、『存在と時間』後もこのテーマでいくつもの講義を行っている。
つまり、これが木田さんの言う「ハイデガーは『アリストテレス学者』であり『哲学史家』だ」と言っている根拠でもある。
ハイデガーが志向していたのは古代ギリシア思想の復権でもあったのだ。
そのために「西洋哲学史」を「アリストテレス」までさかのぼって研究するのがハイデガーの構想だったのである。
こうやってハイデガーの思想を前期から転回を経て後期思想に至るまで一貫して綺麗にまとめる手腕はさすがに木田さんだけのことはあるなあと思った。
木田さんは正直な人で、ハイデガーの技術論については「私にはまだよく理解できないところがあるので、ここでは採り上げることができなかった」と書いている。
これは明らかに木田さんの知的誠実性を表していて、哲学の専門家というのは、いくらでも難解な哲学用語を使って読者を煙に巻くことで自分の知的権威を守ることが出来る(出来るし、それをやる不誠実な人も多い)のにも拘らず、「知らないことは知らない」とちゃんとオープンに言って誤魔化さないのである。
専門用語を使って誤魔化そうとするタイプの人というのは、いわば読者を見下していて、そういうメンタリティを持った人はどこか書いているものについてもイマイチ誠実性が感じられない。
それに対して木田さんの書き方は、ほとんど無邪気とさえ言えそうな謙虚さだ。
この人、なかなか面白い人なのかもしれないと見た。
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