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「人は嫌いな人が話す真実より、好きな人が話す嘘を選ぶ」はハンナ・アレント / アーレント(哲学者)の言葉ではないと思いますが . . .(嫌いな人の真実よりも、好きな人の嘘がいい)


深月ユリア氏の記事がFRIDAYに掲載された(少し拡大された版がNoteで公開された)後

人は嫌いな人が話す真実より、好きな人が話す嘘を選ぶ

ナチスについて研究した哲学者、ハンナ・アーレントの名言である。この言葉の意味を、もう一度考える時がきているのかもしれない。

人は嫌いな人が話す真実より、好きな人が話す嘘を選ぶ」というのが、ナチスについて研究した哲学者、ハンナ・アーレントの名言だ。

人は嫌いな人が話す真実より、好きな人が話す嘘を選ぶ」をSNS上で数多く目にしますが

これは哲学者ハンナ・アーレントの著作やインタビューからの引用ではないと思います。

ドイツ出身で、1933年にフランスへ、1941年にアメリカへ亡命した(ドイツ系ユダヤ人である)ハンナ・アーレントの多数の名言がインターネット上に掲載されていますが

人は嫌いな人が話す真実より、好きな人が話す嘘を選ぶ」は見当たりません。不勉強のため、ハンナ・アーレントの文章や発言と取り違えられた経緯は不明ですが、下記の書籍やブログに手掛りがあるような気がします。これらの書籍やブログにある「嫌いな人の真実よりも、好きな人の嘘がいい」は理性では割り切れない男女の関係

「嫌いなの真実よりも、好きなの嘘がいい」
「嫌いなの真実よりも、好きなの嘘がいい」

に言及しているようです。

H・アーレントといえば、ナチズムを論じた『全体主義の起源』で、世界的に有名な女性思想家だ。妻子あるハイデガーと、恋人関係にあったことでも知られている。ハイデガーは、ナチスに入党した経験があったので、ユダヤ人からとくに激しい非難を受けた。もっともゆるせない言動をしたはずのハイデガーを、ユダヤ人のアーレントが、終始、弁護につとめたという。「嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそがいい」といわれるように、大学者でも好いた人のやったことは、悪には思えなかったのだろう。

どんな他人の批評にも、いつもこんな危険が冒されている。

『なぜ生きる』pp. 211-212

ハンナ・アーレント
Hannah Arendt, 1906-1975

ドイツ出身の、アメリカの政治哲学者、政治思想家。朝はゆっくり起きてコーヒーを何杯も飲む習慣を生涯続けた。大変な愛煙家でもあり、心臓発作でハイデガーより1年早く世を去った。主著は「全体主義の起源」「人間の条件」「革命について」。

嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそがいい

ハンナ・アーレントの場合

ハンナ・アーレントといえば、ナチズムを論じた『全体主義の起源』で、世界的に有名な女性思想家だ。妻子あるハイデガーと、恋人関係にあったことでも知られている。

    *    *

1907年、ユダヤ人の両親の元、ドイツに生まれる。

7歳で、最愛の父と祖父を相次いで亡くし、唯一の家族となった母が、一人で湯治に出かけるたびに、孤独に怯えたという。

病気で学校を長期欠席したり、母の再婚による二人の異父姉妹との同居で、孤独感と無力感をさらに深めていく。

その反面、〝ユダヤ人として、胸を張って生きてほしい〟という母のしつけのためか、目つきは鋭く、高校1年の時には、授業ボイコットで退学処分となってしまった。

「虚勢を張ることが私のエネルギーの実に多くを食いつぶしてしまう」

と、後に胸中を明かしている。

学業はずば抜けて優秀で、同級生より一年早く大学入学資格を取得した。そして、生きにくい人生の解決を哲学に求めたマールブルグ大学で、マルティン・ハイデガーと運命的な出会いをする。

当時、35歳の若さでドイツ全土に名を馳せていたハイデガー助教授は、妻子がありながら、東洋的な顔立ちで聡明なアーレントに一目惚れした。畏敬する師の甘い言葉にすっかり魅せられ、アーレントは、彼のスケジュールに合わせて、下宿の屋根裏部屋へ招くようになる。

2人は学問的にも互いに刺激を与え、ハイデガーは間もなく、主著『存在と時間』を完成する。アーレントは、思索の方法を吸収していった。

交錯する愛憎

しかし保守的な町で、人目を忍ぶ逢瀬が、長続きするはずがない。2年後、ハイデガーの意向をくみ、彼女は別の大学に移る。その後しばらく続いた関係も、ハイデガーから一方的に打ち切られた。

「神の思し召しがあれば、私は死後もあなたを一層愛するでしょう」

と言い、失意のまま23歳で、ユダヤ人哲学者との結婚を選ぶ。

第2次大戦前夜、ドイツでは反動的な空気が広がっていた。ナチ党への傾斜を強めていたハイデガーは1933年、ついに入党し、ナチスの後ろ盾でフライブルク大学の学長に。その就任演説で、ヒトラーをたたえ、忠誠を公言したのである。

ショックを受けたアーレント(27歳)は、ユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れる中、二度と戻らぬ決心でドイツを離れ、アメリカへ亡命。ジャーナリストとして、ハイデガーを含むドイツ知識人たちが、ナチを支持した盲目と臆病ぶりを非難し続けた。

大戦後、公務で再びドイツの土を踏む。この時、ナチ協力の罪で公職を追われ、非難の渦中にあったハイデガーに、17年ぶりに再会するや、

「生涯で初めてお互いに(真剣に)話し合った」

と和解し、彼のウソで固めた弁明を、いとも簡単に信じたのである。

「ハイデガーのナチズムは、いろいろなことが重なり合った成り行き」
「(あの悪名高い演説も)ある点では不愉快なほど民族主義的ではあるが、決してナチズムではない」

と弁護に努める一方、彼の著作の英訳事業に協力し、その翻訳からナチズムの痕跡を払拭することにも腐心した。

「根は人が善くて、私の心をしきりに揺り動かす人なつこさ(こうとしか私には表現できないのですが)を確信」したと述べ、彼の前では著名人の顔を捨てて、女学生のように振る舞ったといわれる。

「嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそがいい」

というように、〝物事の本質を見抜く力を持つ〟と言われたアーレントも、好いた人のやったことは、悪には思えなかったのだろう。

自分に都合のよい時は善い人で、都合が悪くなれば悪い人という。どんな他人の批評にも、いつもこんな危険が冒されていることが分かる。

   *      *

ハイデガーとの交友関係は、晩年まで続き、68歳の最後の訪問では、かつて三角関係で火花を散らした彼の妻ともうち解けたという。


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