◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その2
※前回「◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その1」のリンクは以下。
※今まで紹介した「ウィトゲンシュタイン入門」記事へのリンクは以下。
※一冊目:岡田雅勝『人と思想76 ウィトゲンシュタイン』
https://note.com/orokamen_note/n/n257f5daa24bf
※二冊目:中村昇『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』
https://note.com/orokamen_note/n/n4e32ad044420
※三冊目:飯田隆『ウィトゲンシュタイン 言語の限界』
https://note.com/orokamen_note/n/n38cb48c62166
※四冊目:鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
https://note.com/orokamen_note/n/n234dc8b18591
<2024年6月14日>
いきなり余談から始めて恐縮だが……『論理哲学論考』はほぼウィトゲンシュタインの「本意」とは違った部分を評価された思想書だと言っていいかもしれない。
何しろ、ウィトゲンシュタインの遺した膨大な原稿を読み解く遺稿研究を待たねば、『論考』に託したウィトゲンシュタインの正確な執筆意図など分かりようもなく、普通に読めばこの本はほぼラッセル-フレーゲを継ぐ論理学の本だとしか解釈できない内容なのだ。
そして、上の引用文中にもある通り、同じく20世紀中に最も大きな影響を与えた哲学書はハイデガーの『存在と時間』だが、これも基本的には本来の分量の半分の内容で「前半部」のみが出版されたにすぎず、これの内容についても当時、ハイデガーの「本意」に沿って正しい読み方をした者はほぼいなかったと言われている。
ハイデガーとしては『存在と時間』を、西洋思想史的に影響を与えた思想家たちの存在論を覆していき、古代ギリシア思想にまで遡って伝統的な西洋思想の転覆を計った書である……という当人の意図など誰も読めず、当初はこれを多くの人が「実存哲学」として読み、そういう内容として影響を与えたのだと言われている。
要は、20世紀中に最も影響を与えた2つの思想書、『存在と時間』も、『論理哲学論考』も、両者ともに「誤読」された内容によって、評価されているわけである。
となると、思想書にとっていったい「執筆者の"本当の"執筆意図」とは何か?……と言う風に思わなくもない。
が、本来テクストというのは、そういうものなのだ。これは非常に正しいテクスト批評的現象だと言えるだろう。
そもそも「解釈」というものは本来、テクストに記された情報に矛盾しなければ「作者が本当に何を意図していたのか?」などという観点は無視して良いのである。
それがいわゆるバルト言う所の正しい「作者の死」であり、作者は作品の内容までをも規定する「創造主」としての神の位置を剥奪された。現代のエクリチュールの場として重要なのはテクストであり、それを解釈する読者の自立性だと言えるだろう。
だからこの場合、正しく解釈されなかったウィトゲンシュタインがいくら不満を言おうとも、けっきょくラッセルやウィーン学団らの『論考』に対する「誤読」は、「誤読」ではなく彼らの正しい「解釈」であったのだ。
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『論理哲学論考』の命題「1」番台は7つの命題から成り立っている。
これについて各々の命題は文字数も少なくすぐに読めるのだが、ここで注意したいのは、以前も書いたように「事実」「事態」「出来事」といった、日本語でそのまま受け取るには、やや微妙なニュアンスの単語がほとんど説明を削がれた形で出ている事だろう。
以前も書いた通り、この「事実」と「事態」の差に関しては矢野茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』に解説が載っているので(P.326)読んだほうがいい。
ウィトゲンシュタインのいくつかの入門書・解説書を読んだ人ならば、「1」番台の命題群はこの「事実」と「事態」の内容さえ理解できていればさほど読むのが辛いという事はなくなるだろう。
矢野茂樹の説明だと「事実」は「Tatsache」、「事態」は「Sachverhalt」の訳で、矢野によれば前者は「現実に成立していること」についてであり、後者は「成立可能なこと」という「現実に成立する可能性がある事態」の事を「事態」と言っている。
それだけではなくこれらは「複合的/要素的」といった区別のニュアンスも加わっているために、やはり日本語そのままの意味で受け取ると頭を悩ませてしまうかもしれない。
けっきょくこの辺の読み方は、前後の命題からその語に含まれる感覚を読み取るしかないだろう。
そして、命題「1」番台に出てくる単語として面白いのは「世界」と「論理空間」という区別もあるという点であろう。
これは現実に成り立っているものを「世界」と言い、それに対応して、可能性も含めて成り立つものを「論理空間」としていると考えて良いだろう。
論理空間は『論考』において非常に重要な概念になってくる。
現実的に成り立つ可能性のあるもの――つまりは、われわれが論理的に言及できる(言語で思考できる)限界の範囲を『論考』では「論理空間」としたわけである。
この命題「1」番台やその後に続く「2」番台の命題は、フレーゲやラッセルが確立させた記述論理学が、現実的な世界とどう対応しているのかという点を説明していると言って良いだろう。
つまり、現実的な世界と論理は、どのような対応関係があるのか、という事を説明するための下準備をしているわけである。
そして、この対応関係を説明して「現実的な世界」と「論理で説明できる可能性も含めた世界観」とを架橋する仕組みとして、命題「2.1」番台になってやっと「写像理論」が現れるわけである。
「2.1」番台の命題から「2」番台の終わりである「命題2.225」までの命題群は、ほぼこの論理空間内で「像」がどのような働きを持ち、「像」が現実とどのような対応関係にあるのか、と言う事の説明に充てられている。
われわれの使っている「言語」であり、その背後に流れている規則である「論理」というものは、現実に成り立っている世界とどういう関係にあるのか……と言う事を、ウィトゲンシュタインはこの「写像理論」で説明しようと考えたわけだ。
これは以前の記事でも紹介した通りである。
こうして、実際に存在している現実的な世界と、論理や言語を司る論理空間との関係性が準備されたわけである。
「現実に成立していること=事実」の「論理的図像=論理空間の中で実際にあるものの模型として働く像のうち、論理的なもの」が、「思考」である……と、今までの命題群で説明して来た「現実の世界」と「論理空間」の関係性を示した上で、われわれの使用している「思考」をここで「論理空間」と紐づけた。
これによって、この後の記述論理学の議論が、われわれの現実的な世界とは全く関係のないものではなく、われわれが使っている「思考」や「思考」を使う時に利用している「言語」と対応したものである事を説明したのである。
「論理」は、現実世界から関係のないルールに基づいた架空の規則群ではなく、現実と紐づいた「写像」であり、それが「言語」の裏にも流れている規則であると。
だから、われわれは「言語」や「論理」によって、現実世界で起こっているあれこれを説明できるのである、というのがウィトゲンシュタインの考えなのだ。
西洋思想は今まで、こういった関係性にある「言語」によって、「論理」的に現実世界の様々な問題を考察して来た。
しかし、こういった「論理」と「世界」との対応関係があるからには、「世界」から外れた事について――それがつまりは宗教的な部分であったり、美学的な部分であったり、倫理的な部分であったりするのだが――「論理」で説明する事はできないでしょ?というのが、ウィトゲンシュタインの「西洋哲学の問題の終わらせ方」だったのだと言えるだろう。
ウィトゲンシュタインが『論考』の命題「1~2」番台で、かくも「現実的な世界」と「論理」との関係性を入念に定義づけて説明しようとしているのは、こういった意味があったわけである。
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※以下、「◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その3」に続く。