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HAPPY TORTILLA
2019年2月9日 21:23
少しもくたびれない、スタンドカラーの上着を脱いでハンガーにかける。カジュアルな装いで十分なくらいに、過ごしやすい暖冬だ。仕事がひと段落すると、突然に和そばを食べたくなった。だいぶ前にお土産でもらった乾麺を茹でるお湯を沸かしながら、魚介のフリッターを揚げる。外は季節外れのスコール。大量の水が地面を打ち付ける音と、窓からの景色と、新鮮な揚げ油の匂いと、1DKの素っ気ない内装と、季節感のない素
2019年1月21日 21:59
「めずらしい選曲!」「なかなかいいでしょう、たまにはね」「クラブみたい」「人混みはどちらかというと苦手だけど」カフェ・マゼランはライブハウスやダンスホールさながらの熱気に満ちていた。といっても、客でいっぱいで暑苦しいのではなく、音楽だけで活気が漲っていた。「なんか、鼓舞されるというか、突き上げるようなパワーがあるね」「お酒を中断しててね」「え、関係ある?」「濃い珈
2019年1月16日 07:42
信じられないことに、ジョンは翌週にエストニアの彼女とオンラインでのやり取りを経て再会の約束を果たした。思い出を話したら、我慢できなくなったから連絡したと言っていた。清々しい顔の印象が、とてもよかった。ひとりの人として惹かれるのにも十分な相手だったのだろうけれども、2人はその音色やパフォーマンスに表れる本質的な部分で深く強く結び着いている。その熱や火花や、ときに痛みを伴うような化学反応までもが、美
2019年1月14日 11:37
スパイシーなグリルプレートを豪快にたいらげて、ジョンは言った。口元を拭いたペーパーナプキンを折りたたみながら。「さっきの話、プレッシャーとかそういうことじゃないからな」食事中は込み入った話題を中断する誠実さを、僕はとても好ましく思った。「褒められたら、っていう話だよね」「そう。プレッシャーは服みたいなもんだから、いつだって身体にくっついてるんだ。緊張感は嫌いじゃない」「強いね
2019年1月13日 18:23
ほんのりと檸檬の香る水。すっきりとした後味、透明な美味しさ。それを一気に飲み込んで、ジョンは言った。「はやく大人になりたかったよ、俺は」横顔の睫毛の長さ。その向こうに、忙しく注文を取ってキッチンに入るマスターがいる。バイトの女の子は、まだ帰省しているらしい。「大人に?」「子どもにはない自由がある」夏のライブで出会って以来、ジョンとはときどきこのカウンターで顔を合わせる。
2019年1月6日 14:45
「猫の目というのか、秋の空というのか」そう言いながらマスターがカウンターに置いた大ぶりのグラス。透明に澄んだ大きな氷を入れたアイスティーは、きんと冷えて身体に馴染んだ。雑味なく清冽で、清められるようだった。「うん。でも、ただ変わりやすいとかっていうんじゃないんだよ。気がついたら宙を舞うみたいに飛んでいて、地上に立ったときに感じる重力みたいなのに参ってしまう」「比喩的でわかりやすいよう
2019年1月5日 19:54
カフェ・マゼランに向かうとき、坂を登る。右手には海、左手には林、その奥には街がある。さらに内陸にある赤茶けた山々を望みながら、その景色を見るのが僕はとても好きだ。林からは、フクロウの低い鳴き声が聴こえる。木魚みたいな、鎮静効果のある一定のリズムで。病み上がりの時期を終えて、店の扉がようやく軽く感じられるようになってきた。新しい年を迎えるまでに幾度かのディナーを経て、たっぷり養生できた
2018年11月20日 07:50
「ながらくお待たせしました」 「待ってないけど、ひさしぶりだね。いらっしゃい」 2週間も『マゼラン』に来なかったのは、この土地に来て初めてのことだ。この店の名前を、僕はたった今、知った。扉と同じくらいに古いボードに文字が浅く彫られていて、色もついていないから、よく見ないと気がつかない。 「砂のお城の上に旗が立っていて、それを目指して階段を登ってて」 「いきなり、だね」
2018年10月1日 07:01
この街で最良の居心地を誇るカフェバーにて。 便利でスピーディーな時代の象徴、インターネットの動画サイト。僕は60年代や70年代のプレイリストに浸る。 「イヤホンなんてしなくていいのに。それ、今晩のBGMにしようか」 マスターが言った。こざっぱりした黒髪ショートのヘアスタイルに、生成りのショートエプロン。いつもと同じ低いトーンの声。 「いいの?ドレスコードみたいのとかないの?ドレ
2018年9月25日 07:44
「夢を見てたのは、僕のほうなのかもしれない」 大きくなりすぎたテーブルヤシの向こう側の席から、聴き慣れた声がした。街中のレストランの、洗練されたデザインのダイニングテーブルとチェア、ピアノとヴィオラの室内楽。いつもとはずいぶん雰囲気の違う店で、こことは違う店でよく聴く声を、僕はキャッチした。 「人の中で生きていけると思ったんだよ、お前といたとき。とんだ勘違いだったけど」 話し
2018年8月20日 08:07
古びた手摺をコンコンと叩きながら、海岸沿いの坂道を登る。ピーマンの収穫のバイトは、慣れた頃には終盤に差し掛かってきていた。先の予定が決まっていないことに違和感がなくなり、さて次はどうしようかなと余裕をもって構えていた。その余裕が、少し前の記憶を呼び起こさせたのかもしれない。ここに来るまえ、僕はWEBデザインの会社に勤めていた。案件ごとで稼ぐスタイルだったということもあって、時間の自由がわり
2018年8月7日 07:38
タトゥーの青年は、入り口から真っ直ぐにカウンターに向かってきた。無遠慮な仕草で僕のすぐ隣に座り、美しい発音でビールを注文する。ライブの夜に、流れる涙を拭いもせずに海際の席にいた彼とはまったく違う雰囲気だったが、彼で間違いないと僕はすぐに気がついた。にこっとして微笑み合って、僕たちはごく自然な成り行きで友達になった。 このまえは涙に濡れて伏せ目がちで気がつかなかったけど、今晩はしっかりと
2018年8月5日 17:15
「ほんとうによかったなあ、先週のライブ」 ココナツ独特の甘みが、冷たく舌の上に転がる。フクロウのデザインがほどこされた長すぎるステンレスのマドラーで、カフェラテの氷をかき混ぜながら僕は言った。 「そう言ってもらえて光栄です、歌ったのは私じゃないけど」 マスターが「私」というとき、なんともいえない違和感の風が吹くような感じがする。 「企画したのはマスターでしょ」 「そ
2018年7月30日 07:31
西の空にほんのりと残るオレンジ色。古びた木の手摺のある登り坂には、アンプから流れる音が響く。バーのテラスには、形の揃わない椅子が、並べられているとは言えないような配置で適当に置かれている。ぬるい風に揺らされる松明の炎。火の入った野菜とスパイスの混じるディナーの香り。 「いつもより人が多い」 僕は言った。 「そりゃ、ライブだもの」 マスターが言った。 「誰が歌う