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23. 人間もどき 【マジックリアリズム】

少しもくたびれない、スタンドカラーの上着を脱いでハンガーにかける。
カジュアルな装いで十分なくらいに、過ごしやすい暖冬だ。
仕事がひと段落すると、突然に和そばを食べたくなった。
だいぶ前にお土産でもらった乾麺を茹でるお湯を沸かしながら、魚介のフリッターを揚げる。
外は季節外れのスコール。
大量の水が地面を打ち付ける音と、窓からの景色と、新鮮な揚げ油の匂いと、1DKの素っ気ない内装と、季節感のない素材の半袖。僕は今いる場所としていることが脳内にうまく収められなかった。
ちょうどいい歯ごたえで、白っぽいタイプの蕎麦をすすりながら、珈琲だけ飲みに出掛けようと思った。
薄い衣の揚げた魚介は蕎麦のつゆによく合う味がした。

あがりかけのスコールの中、自転車を走らせて坂を登る。

ぽこんぽこんと音を立てるココナツの風鈴、重厚な木の扉を開けると、なかなかの爆音で室内楽のロックアレンジが鳴り響く。

「こんばんは、ワイルドな音だね」

「楽譜は変わらないのに、弾き方で変わるっていうやつの極致」

マスターは言った。
めずらしく、白いカッターシャツを着ている。

「なんか今日はパリッとしてる。イベントとかあったの?」

「チェロを弾いてきた。知り合いがリゾートウェディングで来てたから」

「聴きたかった!」

「式だから、関係者以外は入れないよ」

「どんな曲?」

「アリアとか、そういうの。流れるような美しい曲の数々」

「綺麗なんだろうなあ。そして、帰ってきたらやんちゃなアレンジを?」

「意識してなかったけど、やんちゃっていう印象?クラシックのカヴァーっておもしろいよね。激しいんだけど美しくて」

「うん、嫌いじゃない。マスターの弾くのが聴きたい」

「機会があったらね、今晩はご飯?お茶?」

「珈琲だけ飲みに来た。蕎麦を食べてきたから」

「いいねえ、日本にいたときに通ったなあ。白っぽい系で、二八蕎麦が美味かい店だった」

「マスターも白いの派?僕と一緒だ。魚介の揚げたのがめちゃくちゃ合うんだよ」

「海老とハーブのフリッターみたいなのが載せてあるのが最高だったな」

手際良く、そして丁寧にドリップしながらマスターは言った。腕まくりの袖のあたりのなんともいえない野性味は、鳴き声みたいな弦の音に似つかわしく見えた。

「今週は疲れたよう、マスター」

「バーとか小料理屋のカウンターでお客さんが言いそうな台詞だ」

「うん、そう思いながら言った」

「忙しかったの?仕事」

「案件そのものは難解なものでもなかったんだけど、取引先がきちんとした会社だったから肩が凝った」

「いいじゃない、きちんとした取引先なんて」

「もちろんそう思うよ。やりやすかったし、担当さんの人柄も温和でよかった」

「緊張した?」

「ううん。こっちに来る前にいた会社もわりとかっちりしたところだったし緊張はしないよ。でも、“ちゃんとしないといかん”っていう気分だったのかも。相手に合わせて、っていうより舐められないように?うーん、こうして言葉にしてみるとそれもちょっと違うような気がしてくる」

「よそいきだったのかなあ、ちょっとだけ」

「よそいきっていう言葉なんか懐かしいね。どうだろう、それならどんなに小規模のテーマでも、仕事の相手にはよそいき感は出るよ。仕事だもん」

「そこかな。仕事だから疲れたわけでもないのかもよ」

「そうなのかな」

「変わってるって思われないように頑張っちゃったんじゃない?」

「変わってる?」

「いや、私はそう思わないよ。でも、まともそうに振る舞うのがトニーくんはまあまあ上手いとは思う。バニラアイス食べる?」

カウンターの手元から、大きなアイスクリームディッシャーをちらっと見せてマスターは聞いた。少しだけ甘いものが欲しいような気がしていた僕は即答した。

「いただきます!」

「実はね、これも手作りなんだよ」

「なんでも作っちゃうね?!どこに向かってるの?どこでもないか。小料理屋かな」

「小料理屋って言ってしまうと、店の雰囲気とは合わないような気もするけど呼び名はなんでもいいよ。美味しいお酒と珈琲と料理を出すエスニックの店です、ここは」

「エスニックって括りだって、若干怪しいような…。ねえ、まともそうに振る舞うってなに?」

「あ、続きね。なにも、まともじゃないっていうわけじゃないからね。私が決められるほどにまともかどうかも別として。ただ、どんな考えや感情が内側にあるとしても、その場に合った形で居られる力がある、みたいな。態度のTPOがきちっとしてるというか」

「自分を作ってる感じ?」

「偽ってるのでもなく、なんていうのかな…服を着るみたいな感じかもしれない」

「今も裸じゃないよ」

「そりゃそうだよ。別に、脱いでくれても気にしないけど、ちょっとびっくりはするかな」

「比喩だよね?」

「うん。比喩じゃなくてもいいけどね」

「からかわれてるのか、なんなのか。でも、わかりやすい。自分なりに、いろんな服があって、いや、実際にはあんまりお洒落じゃないから持ってないんだけどね。比喩的には持っていて、ちょっとフォーマルなのを羽織ったり、あえて外してみたり、いろいろしてるかも」

「よかった、いい例えができて。はい、アイスね」

「ありがとう。例えもアイスも」

「社会性とか言ってしまうと、無理にでも合わせるみたいな印象もあるけど、そういうんじゃないんだよね。本体がどんなに毛深かろうと、太っていようと痩せていようと、お腹がペコペコだろうと、自分の気持ちにスイッチを入れて、相手にも真剣にスイッチ入れてるよってお知らせしてるみたいなね」

「マスターの今日のシャツみたいな?」

「うん、お祝いの席だったからね。それに曲目に合わせたかったしね」

「そして帰ったら、ロックな曲調と腕まくり」

「たまのフォーマルだから、着替えちゃうのももったいないような気がした。でも、服に着られて支配されるのも違うからさ」

「いつもと違うテイストのマスターに会えて充実感がある」

「そりゃどうも。美味しいですか、バニラは」

「うん、ビーンズが最高」

「お目が高いね。鞘から出すのも楽しかったよ、ぷちぷちしてて」

「今度見せてね。みたことないや、バニラビーンズの元の姿。誰だって慣れない服とか、本当に好きなわけじゃなかったら肩も凝るよね」

「私みたいな人間もどきでもそうだからね」

「もどきなの?」

「うん。干支に入れてもらえなかった猫みたいなものだからね」

「えと?」

「日本の占いみたいな?って言ったら怒られるかもしれないけど、占いの本で読んだ。トーテムアニマルみたいな感じなのかな、よくわかんないけど、生まれた年で決まっていて、動物によって性格とか違うんだって」

「おもしろそう、あとで調べてみる。猫はいないの?」

「いなかったね」

「そしたらマスターが人間もどき?どういう意味?」

ぽこんぽこん、と風鈴が鳴る。
観光客のカップルが2組、いっぺんに入ってきて、僕とマスターの話はそこで中断された。

続きが気にはなったけれど、服を選んで着たり脱いだり、という比喩がとてもしっくりときて、疲れが一気に取れたような感じがして気持ちも少し軽くなった。
ロックなクラシックは、今の気分にぴったりだった。
もう一杯だけ、珈琲を頼んで、スマホで干支のことを調べてみることにした。

To be continued...

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