13.重力の痛み 【マジックリアリズム】
「猫の目というのか、秋の空というのか」
そう言いながらマスターがカウンターに置いた大ぶりのグラス。
透明に澄んだ大きな氷を入れたアイスティーは、きんと冷えて身体に馴染んだ。雑味なく清冽で、清められるようだった。
「うん。でも、ただ変わりやすいとかっていうんじゃないんだよ。気がついたら宙を舞うみたいに飛んでいて、地上に立ったときに感じる重力みたいなのに参ってしまう」
「比喩的でわかりやすいような、そうでもないような」
へんに同情的でもなく、かといって突き放すでもない受け応えは、誠実で素朴で、地に落ちて微かに腐っている僕にとってはとてもありがたいものだった。
「ものを作るってそういうところない?マスターは違うの?」
「料理でも演奏でも、似たようなことはあるかもしれない。でも、スタンスの違いはあるかもしれないね」
「没頭しない?」
「いや、するよ。するんだけど、トニーくんの言葉を借りれば、宙に舞って急降下して地面に激突するのは怖いから、繋がれてる気がする。細い糸で。凧糸かな。凧は、繋がれてるからあんなふうに高く飛べる、って前にどこかで聞いた。わかる気がすると思った」
「あえて集中しないってこと?耐えられる?」
「我を失うのが怖いのかもね」
「失ったりしないよ」
「そう思えないところに、スタンスの違いがあるのかもしれない。あ、どっちがいいとかそういうんじゃないよ」
「うん」
夏のライブに参加していたバンドメンバーが夕食に集まってきて、マスターはそちらの席に注文を取りに行った。バイトの女の子が故郷に帰省していて、今日はホールもキッチンもマスターの仕事。
高さのあるグラスに注がれた美しい味のアイスティーを、ゆっくりちびちびと飲みながら、僕はいつもよりもすこし離れたところから、いつもとはすこし違う角度でマスターを見ていた。
この地で職を得ることにこだわらず、オンラインで受注したデザインの案件がわりとコンスタントに入り、暮らしの心配はなくなった。
そして僕は、またあの懐かしい「湧き出す色と形を追いかけて捕まえて調理して」みたいな作業に没頭した。それと併せて、どこに出すのでもない自分自身の呼吸みたいな創作に集中することが、日課よりも当然の活動となっている。
そんな日常の実り多い、濃密で豊かな時間を心ゆくまで堪能したのちに倒れこむという、これもまた懐かしい体感を得ていた。
倒れ込んだ地面の、その地表の重力が、じわじわと実感され、ぎりぎりと万力の痛みを与える。ただ当たり前に、いつも通りの陸上生活を、空気の薄い重たいものと感じてしまう。
あの自由な浮揚と滑空と遊泳の時を思えば、しかたのないことなのかもしれない。
そして、その中毒の餌食となることを心から喜び、リスクを承知でまた駆け出し、気流を見つけては飛び乗ってしまうのだと思う。
「はいはい、ごめんね。今日はなかなかゆっくり話せないね」
カウンターに戻ったマスターは、ハーフサイズじゃない生成りのエプロンのポケットに手を突っ込んで、紙切れを出しながら言った。それを僕に渡しながら続けた。
「えっと、さっき言ってた『集中するかどうか』っていうの。さっき、あっちのバンドメンバーのご飯を作りながら考えてた」
「なんか宿題みたいにしちゃって申し訳ない」
「全然いいよ。思考する時間は嫌いじゃない」
「なんで没頭にブレーキがかかるのかわかった?」
「正直、それはわからない。でも、足跡を残したくないのかもしれないとは思った」
「足跡?」
「うん。脇目も振らず思いのままに走りきって、その間にすれ違った人たちに、痕跡を残さないように、そうっと拝見するにとどめたいのかもしれない。猛進すると、かならずその飛沫を散らしてしまう、みたいな」
「マスターも十分比喩的というか、抽象的だね」
「そうかもね」
ラストオーダーの時間を過ぎ、仕事がひと段落したマスターは、ちょうどよくすこしだけ緩んだ表情で笑って言った。したいことを形にして、そこで職を全うしているように見えても、そこにはオンとオフと言われるような仕組みがあることが感じられる。明確な境はなく、むしろチューニングといったほうがしっくりくるかもしれない。ラジオのそれと同じように、すこしでも周波数にズレがあれば、雑音が入る。
「でもさ、痕跡をまったく残さないっていうのは不可能だと僕は思う」
To be continue..