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5.アイスクリームの魔法 【マジックリアリズム】

「ほんとうによかったなあ、先週のライブ」

ココナツ独特の甘みが、冷たく舌の上に転がる。
フクロウのデザインがほどこされた長すぎるステンレスのマドラーで、カフェラテの氷をかき混ぜながら僕は言った。

「そう言ってもらえて光栄です、歌ったのは私じゃないけど」

マスターが「私」というとき、なんともいえない違和感の風が吹くような感じがする。

「企画したのはマスターでしょ」

「そんな堅苦しいものじゃないよ。眺めもいいし、知り合いに音楽やってる人もそこそこいるからやってみてるだけ」

「このまえの彼女、アジアのアーティスト、また来る?」

「うーん、どうだろう。また来たいとは言ってたけど、遠いんじゃない?」

「ここはリピーターが多いから、きっとまた来るね」

「うん、でも先週はなんだか初めてのお客さんが多かった気がする。珍しく」

「そうかも。見たことない人でいっぱいだった。観光誌にでも乗ったのかな」

「SNSとかかな。宣伝してくれてるのかな、誰かが。いい書き方なら嬉しいね」

「意外。マスターはそういう今時の流行りみたいなものは苦手なタイプかと思ってた。同じ店で何度も見かける人って、好みとか、似たところがあるんだろうね」

「自分はやらないけど、ときどき見るよ、SNS。アーティストのファンとかね、私が好きな歌い手を好きなファンの人たちは合う人が多いかもね」

「見た目はいろいろだったけどね。なんか多国籍だったね」

通常営業のカフェは人もまばらで、生音の代わりにBOSEのスピーカーからイージーリスニングとボサノヴァが混ざったような曲が流れている。

「今日は何にする?日本食もできるよ」

「日本行ったことあるの?」

「あるよ、何度も。食べ物にはまった」

詳しく聞きたいと思ったけれど、空腹が勝っていた。

「じゃあ、生姜焼きお願いします」

「王道だね、OK。すぐできるよ」

バイトが終わると、だいたい毎日ここへ来て食前のドリンクと夕食をとる。昔の実家のリビングに似た居心地の良さが、心身に積もる疲れを癒す。インテリアやBGMは全然ちがうのに、あのカウンターキッチンを彷彿とさせるのは、マスターの料理に含まれる日本食のエッセンスと、やっぱり僕と彼の関係もあるのかもしれない。

「掛け持ちは慣れた?」

「うん、なんだか性に合ってるかも」

「不安、小さくなった?」

「僕、不安なんて言ってたっけ」

「うん、言ってた。それに、そのように見えた」

「去年までだって不安だったよ、むしろ、今までのほうが。同僚や取引先の人たちは、堂々として自信があるように見えたけど、僕は落ち着かなかった。もしかしたらみんなも、本当は不安とかあるのかもしれない。でも、僕は堂々として見せることすらできないくらい、不安で仕方がなかった」

「どんな不安?」

肉汁でつやつやした生姜焼きは、シンプルな白い平皿に載ってやってきた。キャベツの千切りと、カットしたフルーツトマト。定番中の定番、完璧な配色。

「そこでしか活動できなくなる不安とか、あと、地震とか」

「地震はどこでもあるけど、そこでしかってどういうこと?」

「いつなにがあるかもわからないのに、土地とか組織とかに慣れすぎるのが怖かった。変化に弱くなることへの怖さがあった」

「変化する前提だったんだね、平家物語みたいだ」

「諸行無常?そんなに深いことなのかどうかはわからないけど、なにがどうなってもやっていける力が欲しかったっていうのはあるかも」

「それなら今も進行中だね、修行というか、冒険というか」

嘘みたいにやわらかい豚肉を、思春期の運動部男子のようにもぐもぐと頬張って食べながら僕は言った。

「今は今でやっぱり不安だけど、始める前よりはよっぽどいいよ」

「どうしていたら安心できるか、っていうのは人それぞれだからね。“安心”なんてキーワードを考えもしないままに、みんなそれぞれ居心地のいい形に収まろうとするものだと思うよ。側から見れば、それがどんなに変てこなスタイルだとしてもね」

「大多数の人が選ばない道を選ぶのって、不安じゃなかった?」

「トニーくんに言われたくないよ」

目尻に小さな皺のできる優しい笑顔でマスターは続けた。

「安心してないし、かといって不安というわけでもないよ。私は、どうしてもできなかったからね、“みんな”と同じようにすることが」

「みんな?」

「もう幼稚園生くらいからそれは始まっていて、絵の続きを描きたいのに泥遊びのお時間です、ってやめさせられたり、みんなでそろって挨拶させられたり、そういうのが人生のわりと序盤から無理だったんだ」

「い、生きづらそう。そんな小さい頃って何も考えずにやってた気がする」

「よくそう言われたよ、この話をすると。誤解のないように言っておくと、みんなと同じなのが嫌なわけではないんだよ。ただ違和感があるとしか言えない」

「違和感があると、できないんだね」

「そうそう。なんか、いつもと逆みたいだ。聞いてもらってる感じになってる」

「ごく自然だと思うよ、まったく一緒じゃなくてもどこか似ていて被るようなところがあるからきっと居心地がよくなってるんだと思う」

マスターの手元に目をやると、いつもと違うグラスを持っている。

「なに飲んでるの?」

「パイナップルのウォッカ」

「それだ!ちょっと酔っ払ってるんだ、マスター」

マスターは多くを語らないけれど、いろんなものを抱えているんだろうなと思った。誰でも当たり前のことだけど。もっと親しくなりたいような気もするし、人との距離はこれくらいがちょうどいいような気もしている。経験から。少しだけ深く知っている、というくらいの負荷の低い、気楽な関係。さっきは言葉にしなかったけど、僕が組織を抜けたのは、その理由も大きく影響していた。距離を詰めることを無意識に避けている、と薄々気づいてはいる。もちろん、その理由も。
数秒の間、そんなことを考えて無言になっていた。マスターは、僕が綺麗に平らげた生姜焼きの皿を下げて、定食のセットになっているパッションフルーツのアイスクリームを差し出した。口に含んだときの、滑らかな舌触りと、甘酸っぱさがたまらない。この果物は、デザートにしても飲み物にしても、全体的な甘さと、小さく優しい突起のような酸っぱさがちょうどいい配分で楽しませてくれる。

ほんの一瞬、考え込んでしまった小匙一杯分の仄暗さをさらって掻き消してくれる、魔法のアイスだ。

魔法が効いたとき、カフェのドアが開いた。木でできた風鈴の音がした。
僕はその風鈴の音がとても好きだ。
そして、同じくらい好きかもしれない外見の人物が、そのドアから入ってきた。

…continue...

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