8.鉄の扉 【マジックリアリズム】
「夢を見てたのは、僕のほうなのかもしれない」
大きくなりすぎたテーブルヤシの向こう側の席から、聴き慣れた声がした。
街中のレストランの、洗練されたデザインのダイニングテーブルとチェア、ピアノとヴィオラの室内楽。
いつもとはずいぶん雰囲気の違う店で、こことは違う店でよく聴く声を、僕はキャッチした。
「人の中で生きていけると思ったんだよ、お前といたとき。とんだ勘違いだったけど」
話している相手はちょうど柱の陰に隠れてしまい、よく見えない。
「売れたらちやほやされるくらい、想像できてた。でも、お前には“消費”されたくなかった。いや、それは別によかったのかもしれない」
「相変わらずめんどくさいな」
「離れてみてよくわかったよ。お前は、夢を語る私を見下して、安心してた。うまくいくなんて思ってなかったし、うまくいってほしいとも思ってなかったんだ」
「感傷的だな。世捨て人になると、心は青春に戻るのか?いや、昔から青いこと言って浮世離れしてたよな、お前は。ドロップアウトするのも頷ける」
「ドロップアウトじゃない、なにも失っていない。はじめから手に入れてもいないんだ。取り戻してるつもりだったけど、新しく手に入れているんだよ、ここでの生活で」
「それなら、なんで自分の店に連れていかない?自分から連絡してきたくせに。美しい街をただ観光させたかったのか?俺に」
「お前が好きなタイプの店じゃない」
「そうやって線を引いてるのは、お前のほう。いつも」
「お前が私を締め出したんだよ。私を褒めて持ち上げて、そして…」
新鮮な野菜と良質の脂ののった肉の焼ける匂いを漂わせて、背の高いウェイターが僕の横を通り、マスターたちのところに行く。肝心なところで会話が途切れて、舌打ちしたい気分だったけど、数秒後にはそんな自分を恥じた。盗み聴きなんて、最低だ。
いつもは僕が話すばかりだから、ミステリアスなマスターのことは、これっぽっちも知らない。風変わりな気配たっぷりだし、この国の生まれじゃないことなくわかるし、ほぼ男の外見だけど、なんていうか、所謂わけありなのかなと思ってはいた。柱の陰から聞こえるセクシーな低音の持ち主は、マスターの親友?恋人?それとも仕事仲間だったのだろうか。
とにかく、続きの気になる会話を後にして僕はそのレストランを出た。普段は行かない店で遅めのティータイムを過ごそうと気まぐれに入ったんだ。
鉄製の重厚な扉は、いつものバーのそれとは違う。店の内側と、外側をきっぱりと隔絶する壁のようだった。その高い壁が、内側の壮麗な世界をより特別なものとしているのかもしれない。
誤解のないように言っておかないといけない。レストランはとてもいい店だった。整然としていて、それでいて荘厳さに満ちていて、僕はそういう店も大好きだ。
落ち着かなくさせたのは、あの扉。
世界を分ける、鉄の塊。
帰り道、僕はあのライブの晩の月を想った。
玄関のポーチ、と呼ぶにはいささかいい加減な造りの空間は、海の見える庭と曖昧に繋がっていた。形の揃わない椅子がランダムに並んでいたあの夜。
アジアのアーティストの放つ、深い響き。
そして、ジョンに会いたいと思った。強くそう思った。
できれば、あの月の晩の彼に。
後日、バーで会って喋ったときの彼ではなく、海際の席で流れる涙を拭かずに聴き入っていた彼に。
To be continue...