15.ステージ【マジックリアリズム】
ほんのりと檸檬の香る水。
すっきりとした後味、透明な美味しさ。
それを一気に飲み込んで、ジョンは言った。
「はやく大人になりたかったよ、俺は」
横顔の睫毛の長さ。
その向こうに、忙しく注文を取ってキッチンに入るマスターがいる。
バイトの女の子は、まだ帰省しているらしい。
「大人に?」
「子どもにはない自由がある」
夏のライブで出会って以来、ジョンとはときどきこのカウンターで顔を合わせる。
それとなく挨拶して、たわいもない話題で笑って、ゆっくりと話す機会は多くはなかった。
マスターと僕が話すのを聞いていたり、聞いていなかったりして、いつも彼は彼のペースで食事をして、強いビールを一杯だけ飲み干して、帰る。
今日はカウンターの客が僕たちだけで、ひょんなことからこの話題に入っていた。
「遊んでばかりじゃなかったから?子どもの頃に」
「仕事してたからね。でも、それだけじゃない。大人になって、学区も制服も時間割もない生活をしたかった」
「制限されたくなかったってこと」
「まあ、そうだね。なんでも自分で決めたかったから」
「君なら、子ども時代でも自由に振舞っていそうに見えるけど」
「よく言われる。でも、こう見えてもわりと真面目にやってたんだ。それに、ハイスクールの頃は、あれはあれで楽しかった。部活の試合とか、クラスメイトと喧嘩したりとか」
「喧嘩が楽しかったの?」
「いや、本気でぶつかるっていうか。その時は楽しくないけど、いま思えば盛り上がってたなって」
「部活は?」
「ダンス」
「ダンス!それで身体つきが」
「職業にした」
「そうだったんだ!てっきりシンガーかと思ってた」
「なんで?歌とか自信ないけど」
「あの晩、没頭してたから。外の席で、はじっこのさ」
「あの声は本当によかった。曲も。でも、自分じゃ歌わないよ」
「服装とか、雰囲気でミュージシャンなのかなって勝手に思ってた」
形には特徴のないTシャツの装いなんだけど、その色味にしても、柄にしても、あまり街中で見かけないようなものだった。派手じゃないのに、ジョンが着ると目を引く。かっこよくて、クールに見える。
「ああ、見た目ね。仲間には、歌うやつもいるけど、俺は歌わない。聴くだけ」
「僕も、聴くばっかり」
「これはやばいぞ、って曲は一音目から違うんだ」
「前奏で、わかる」
「そう。神経が集中して、奏者に気が集まる。周りの椅子やテーブルや木や料理や酒まで、ざわざわし出して、観客も音楽の一部になっていく。そこで、ボーカルが音を外すとか、とんでもないミスを犯すと、転んで笑うしかないけど、俺は勘を外さない。家具まで惹き込むような歌い手は、そんな野暮な間違いはしない」
「優れた感覚の持ち主なのか、ちょっと突き抜けちゃってる目線で世界を見てるギリギリの感じの人なのか、よくわかんないよ。でも、なんかいい」
「どっちでもいい。とにかく、すごいやつって本当にいるんだ。見た目が地味だとわかりにくいけど、音を聴けばわかる、そう思うだろう?」
「うん、同じかわかんないけどなんとなくわかる。共感できる」
「ダンスにも似たところがある」
「そうなの?」
「研ぎ澄まして立つ、全身の神経を集中させる。指先までよく言うけど、絶好調のステージでは指先よりも一寸先まで、意識があるみたいになる」
「なったことないかも、そんなふうには」
「普段の生活でそんなことしてたら、消耗して何時間も起きていられないと思うよ」
「身体を思うように動かせるようになるまでにも年月がかかった。そこから、思うように動かさなくても動けるようになるまでは意外と早かった。まるで何かが乗り移ってきたみたいにね」
「観てみたいな」
「そのうち観ることもあると思うよ。声をかけるよ、出番のときに」
「ありがとう、大会とかも?」
「それはもうしない」
「出てたこともあったんだね。ダンスだけじゃないけど、パフォーマーがたくさん出演するフェスのHPを担当したことがあるよ、ずいぶん前に」
「デザイナー?」
「数年間。今もオンラインで受注してる」
「そんな感じがしてた」
「どんな感じ?」
「うまく言えないけど」
「ショーとはまた違った面白さがあった。お祭りみたいで」
「festivalだから、その通りだ。フェスならいいかもしれない。大会は勝ち負けがあるから、って言うと根性なしみたいになるけど、応援されるのは、ほどほどでいいんだ」
「応援されたら嬉しくない?」
「褒められるのはありがたい。でも、かえって辛いときもあった」
もっと聞きたい、と思ったところでスパイシーなグリルの香りが立ちこめた。
ジョンはビーフとチキンとハーブの一皿を。
僕はガーリックの効いた大きなシュリンプの一品を。
まずは食べることにして、今夜はビールにしようと決めた。
To be continue..