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12.ランナーズハイの後 【マジックリアリズム】

カフェ・マゼランに向かうとき、坂を登る。
右手には海、左手には林、その奥には街がある。
さらに内陸にある赤茶けた山々を望みながら、その景色を見るのが僕はとても好きだ。
林からは、フクロウの低い鳴き声が聴こえる。
木魚みたいな、鎮静効果のある一定のリズムで。

病み上がりの時期を終えて、店の扉がようやく軽く感じられるようになってきた。
新しい年を迎えるまでに幾度かのディナーを経て、たっぷり養生できたと思う。

「ミックスフライ定食がいいな」

いつものカウンターについて、僕は言った。

「回復したね」

生成りのショートエプロンで手を拭いながら、マスターが続けた。

「今日は鱒があるよ。うちで育てたレモンをかけると絶品。ジャガイモも一緒に揚げよう」

「美味しそう」

クラシックを南国風にアレンジしたBGMが耳に心地良い。
ふと、この奥のリビングで見たチェロを思い出した。あれは、マスターが弾くのだろうか。

「ねえ、あのチェロってマスターの?」

サクッと音を立てる、からりと揚がった鱒のフライ。
きゅうっと引き締まるような新鮮なレモン、もうほとんど香りのヒーリングといってもいい。

「うん、そう。昔、会社のサークルで弾いてた」

「マスターって勤め人だったの?」

「短い間ね。いい経験だった。この時期になると懐かしくなるよ。クリスマスパーティとか、仕事納めの日のこととか」

「仕事納めの日、そんなに印象的だったの」

「最終日ってなんかライブみたいじゃない?なんていうのかな、いい意味でそわそわして、ひとつのところに向かうみたいな」

「ホリデー前の子どもみたいだ。でも、ちょっと浮き足立ってる感じはあるよね。僕も好きかも。でもそれってライブに限ったことじゃないような」

「その場に集まってるんだけど、感じるものも、思うこともそれぞれっていうところがいい」

「年越しは家で?」

「新しいレシピに挑んでみたり、ネットでキッチンウェアを取り寄せたりしてたよ。まとまった時間があるっていいよね」

「僕も料理ばかりしてた。その合間に、HPいじったり、写真整理したりね」

「仕事じゃないほうの、HP?」

カウンターの向こうの、ぴかぴかに磨かれた蛇口をきゅっと締めて、マスターが訊いた。

「うん、こだわりまくりのね」

「私はあのタイトルとか、バナーとか好きだな。一見すると、黒なんだけど、実際はとてつもなく濃いブルーグリーンでしょう」

「すごい…。さすがにそこまで気づく人はいないかもしれない」

「ちょっと共感するところでもある。料理してて、とくに味付けかな、耳かき一杯分くらいの塩加減で、大鍋のスープでも味が変わるから」

「耳かきじゃなくてもいいのに、なにも耳かきじゃなくたって」

「ほんとだ、そこはこだわらないみたいだ」

「凝り性もほどほどに、って思うこともあるけどやめられない。フロー状態っていうのかな、ランナースハイなのかな、取り組んでると夢中になってしまう。トイレに行くことすら忘れてしまって。そうして没頭してるときはあまりにも楽しくて充実なんてもんじゃないんだけども、その後がよくないね。この前の風邪も、たぶんそれかと」

「集中し過ぎちゃうんだね。後先考えず」

「そうみたい、早死にしそうだよね」

「自分に合った働き方を、というのもあって新天地に来たはずなのに、かえって無理がたたってるのかな」

「自分とは違う人のようにして細く長く生きるくらいなら、自分を欺かずに表現して太く短く生きたい。ちょうど、転職する前に、わりと凄惨な感じの事故に遭遇したんだ。あ、僕じゃないよ。ちょうど通りかかっただけ。現場の横を通り過ぎるとき、ふと思った。なに食わぬ顔でただいつも通りに生活してたって、事故に遭うことはある。安全も安定も、思い込みなのかもって。突発的な出来事から逃れられないなら、思い切ってしたいことしようって。それで流れ弾に当たっても、べつにいいやってね」

「吹っ切れたみたいな」

「そうかもしれない。べつに無理してるわけじゃないんだよ。楽しくてやめられない。メンタル的には、すごく満ち足りて幸福なんだ。でも、身体がついてこないことがある。ついてくるんだけど、それやっちゃうと、翌日はもう使い物にならない。風邪の時は、さっきの流れ弾のくだりが嘘みたいに、情けなくうなされてた」

「生き物だからね、人間も。それに、生き物じゃなくたって限界はあるよ。PCも、熱くなるでしょう。充電も要るし」

「今晩も充電してる、美味い鱒のフライで」

「充電をもうひとつ、コーヒービーンズのアイスはいかがですか?」

「なにそれ、美味しそう」

アレンジされた重厚なオーケストラの曲、耳に優しい軽快さのコーティング。
アイスの冷たい心地良さ、ほろ苦さと甘さの完璧な調合。

「マスターもひとついかが?たまには僕もご馳走したい」

「いつだってちゃんとお会計してくれてるじゃない。それで十分」

「そうだけど、一緒に食べたいな」

「嬉しいこと言ってくれるね」

ホリデーの最中、ほかのお客さんは誰もいない。
来た時間も遅かったから、もうすでに日をまたごうとしてる頃だろうか。
表の灯りを落としたマスターは、初めて僕の隣に座った。
間近で見ると意外と大きな手と、切りそろえられた爪。
頼もしく、親しく、なぜだかほんのり、誇らしく感じた。

ワイングラスでするように、デザートカップで乾杯をした。
J.S.Bachの名曲の旋律に合わせ、キャンドルの灯が踊っているように見えた。


To be continue..

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