10.イルミネーションの旋律 【マジックリアリズム】
「ながらくお待たせしました」
「待ってないけど、ひさしぶりだね。いらっしゃい」
2週間も『マゼラン』に来なかったのは、この土地に来て初めてのことだ。この店の名前を、僕はたった今、知った。扉と同じくらいに古いボードに文字が浅く彫られていて、色もついていないから、よく見ないと気がつかない。
「砂のお城の上に旗が立っていて、それを目指して階段を登ってて」
「いきなり、だね」
「一段づつ、ときに何段か飛ばしてだいぶ上の方まで登ってきたんだけど、城だと思ってたそれは少しずつ崩れてただの砂山になってた。砂は海みたいに波打って、波間には、老若男女が自由に、泳いだり遊んだりしてる。犬もいる。目が合うと笑い合ったりして、居心地がよくて。旗はどこに行ったんだろうって探すんだけど、見つけたと思うと、山脈みたいな波の山々それぞれに違う色と模様の旗が見えるんだ。どれを取ろうとしてたんだろうって考えてる間にも、また波打って、見失って、新しい旗を見つけるんだ」
「夢に見たの?」
「そんな感じ」
「夢占いとかよくわかんないけど、伝わってくるものはあるよ」
「すごい。なんにも説明してないのに」
「私の初めての1人旅はカリフォルニアだったんだけど、訪れた国の数がどんどん増えて、ポルトガル語にも困らなくなってきたころのことを思い出した」
「盛り上がらなくなった?」
「うん。そんなにワクワクしたり、不安になったりしないし、さらっと飛行機に乗って、なんていうか、ボルテージは上がらなくなったね」
「いまから新しいことが始まるんだ!っていう感じって、どんどんなくなっていってしまうものなのかな」
「どうだろう。慣れたっていう意味では、すごく楽になるけど、あのなんともいえない高揚感はなくなるよね」
「高揚感って大事なのかな」
「欲しい人にとってはね」
「マスターよく喋る。やっぱり待ち遠しかったんでしょう、僕が来るのが」
「そうかもね。でも、たんにこのシチュエーションが楽しみだっただけかもしれないよ」
「相手が僕じゃなくても?」
「うん」
「ふうん」
素直なのか、ドライなのかわからないマスターの応答を、僕は少し寂しいような、楽なような、なんともいえない気持ちで聞いていた。
「でも、トニーくんみたいに、拡散して展開していく安定的な関係性の相手はそんなにたくさんはいないよ」
「ちょっと表現が過剰で難しい」
「こういう時間を気に入ってるんだよ。それで、久々のディナーは何にする?」
「メニュー全部食べたい。ポータブルの胃袋がないのが悔しい」
「食いしん坊くん、また毎日来ればいいから」
「うん」
「少しだけ涼しくなってきたから、温まる餡かけにしようか。豚ばらと白菜の中華飯はどう?」
「中華も作れるの?」
「もちろん。大好きだからね」
「マスターって、いつからこのカフェやってるの?」
「初めはバーだけだったんだよ。少しは早く起きれるようになって、サンセットからカフェもするようになって、もう7年になる。話すと長いから、とりあえずご飯作るよ」
「聞きたい。でも、お腹空いてる」
「はいはい、待ってて」
数日あけても、もっと間が空いても、すうっと馴染む場所と人。
第2の故郷とか、少し前の時代にはよく聞いた。現在では、故郷じゃなくても、複数拠点を持つことは珍しくなくなった。僕の場合はそれを狙ってここへ来たわけではないけれど、いつでも来たくなる場所のひとつになるのは間違いないと思っている。
小さなこだわりの詰まった店内は、変化がないように見えて、いつもどこか細かいところに、丁寧に手が加えられている。散りばめられた工夫の数々が、居心地のよさを作っている。
暖色のアンティークランプの灯りに、少しだけ彩を感じる。およそ1ヶ月後に聖夜を控え、輝くイルミネーション。1センチに満たない小型のLEDの、謙虚で奥ゆかしく、それでいて、まばゆい輝き。
いつもの坂を上がるとき、家やテントの形をした白いランタンが並んでいることに気がついた。小道の両脇に、不定の感覚で置かれた、手作り風の小さな家々。窓から漏れる、温かい灯。
それに導かれて登りきると、いつものカフェから音楽が聴こえる。
南半球のクリスマスに似つかわしい、ピースフルでスローな調べ。
鈴の音は、店内のイルミネーションの細やかな光と調和して、空間の清らかさをいっそう引き立てる。
曲に、音色に、その響きと、ゆっくりと点滅する灯が交わる。光にも、旋律があることを知る。
童話のような感触の、ひとりサイズの思考に浸って遠くをぼんやりと見ていると、マスターがチャイニーズディナーを運んできた。ちょうどよくて、やさいい割り込み方だ。まったく嫌じゃない。
「せっかくの洋風な雰囲気だというのに、中華を頼んでしまった」
「いいじゃないの、そんなに堅苦しく決め込まなくても」
「雰囲気ってものが…。いっか、美味しいんだから」
「よく見てみなよ、このグローバルな雰囲気の食堂を」
「食堂、っていうといっそう混沌としてくる。でも雑然とはしてない」
「おもしろいでしょ」
「うん。それに、まじで美味しい。なにこの出汁」
「ないしょです。それより、しばらくの間どうしてたの」
「マスターの話が途中だったよ」
「どっちからでもいいよ」
「僕のは短いよ、えっとね…」
イルミネーションに、塩味の効いた中華飯。
マスターと、僕。
音楽はクリスマスで、曲調はどことなくオーガニック。
混沌。
でも、かぎりなく心地いい。
To be continue...
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