
16.シェヘラザードの舞 【マジックリアリズム】
スパイシーなグリルプレートを豪快にたいらげて、ジョンは言った。
口元を拭いたペーパーナプキンを折りたたみながら。
「さっきの話、プレッシャーとかそういうことじゃないからな」
食事中は込み入った話題を中断する誠実さを、僕はとても好ましく思った。
「褒められたら、っていう話だよね」
「そう。プレッシャーは服みたいなもんだから、いつだって身体にくっついてるんだ。緊張感は嫌いじゃない」
「強いね」
「そうでもないよ。勝負のとき、成果のために気を張るなんて当たり前だろう?頑張れって言葉が使われにくくなってるけど、それも別に気にならない。ありがたいよ、エールを送られるのは。ダンサーになりたての頃、グループで活動してたんだ。ファンから贈られる手紙の文面は、完全な英語じゃなくても嬉しかった。雑誌の記者のコメントよりも力をもらえたよ」
「ねえジョン、今日は僕も飲みたい。ビールはどう?」
祈るみたいに組んだ手を解き、無骨な指でメニューを指して彼は答えた。
「ボトルとってもいいくらいだけど、やっぱりこれにしよう」
あまり馴染みのない、シンプルなラベルのビール。フルーティで飲みやすく、久しぶりに少し飲みすぎた。
「美味しい味!故郷の酒?本当に美味しい。苦味があるのに、ジュースみたいにごくごく飲める」
「これを嫌いな人にはまだ会ったことがないよ。慣れると全く酔わなくなるから、だったらジュースでもいいじゃないかと思うけどね」
「あるなら欲しいよ、このビール味のジュース。あ、話の続き」
「あるステージで、いろんな国の民族楽器をバックに歌うシンガーが来た。俺は、グループのうちの何人かと一緒にバックダンサーをやることになったんだ。見たこともないような不思議な形の楽器が置いてあって、音を鳴らすと別の世界に行けかと思うほど、素晴らしい音色が響いた」
「どこの国の?」
「わからない。奏者はエストニア人の女性だった。英語がものすごくうまくて、声も美しかった」
「恋した?」
「なんともいえない。でも、彼女の演奏が好きだったし、話してみると初めて会った気がしなくて、馴染みやすかったよ。彼女がすごく気に入ってくれてさ、俺というよりグループのダンスを。あんなに集中して演奏してるのに、いつそんなの見てるんだろうって思ったけど。すごいんだ、彼女の観察眼は。ちょっとした証明の点滅のテンポのズレや、入退場のときの影の向きとか、小さいところまで気がつくし、それを指摘するみたいにじゃなく伝えるのもうまかった。あの人から言われると、自分たちがすごくいいものになったような気がしたよ」
「君が言うんだから、よほど感性の優れた人だったんだね、きっと」
「間違いない。でも、それから方向を迷いだしたんだ」
「そんなふうに好いてくれる人に会えたのに?」
「音の直前の息の合い方、打ち上げの乾杯のときの様子、へんな違和感はなく確かに好意を感じたよ。そのステージを機に仲間になった大きなグループでパーティーをやったとき、飲み過ぎがちなところを気遣ってくれたのも有り難かった。彼女は自身を律したままで、かなりスマートなやり方で気持ちを表す人なんだ。そういう繊細さに欠ける俺には、とてもじゃないけどもったいない人だよ。だから、伝わってくるものはあったけど、どうすればいいのかわからなかった」
「ちょっと切ないし、いい話にも聞こえるけど、それとプレッシャーの話につながる?」
ジョンはもうすでに2本目を空にしようとしていて、ハイペースに思えたけれど、酔っている様子はまったくなかった。
「だからプレッシャーじゃないって。なんていうのかな、月みたいな感じかもしれない。いつも見えてるんだけど、届かなくて、自分で光りもしないくせに、景色が見える程度には明るくて。ときどきみんなで集まって、音楽の話をした。あのステージから半年、いや、一年以上経ったころ、メンバーのひとりが国外に出ることになって、お別れ会を兼ねたディナーに彼女も来た。2軒目で斜め前に座った彼女は、本当はダンスをやりたかったこと、片方の足の指に欠損があって、身体の重心がずれていること、国際援助のボランティアで行った国の楽器に惚れ込んで、奏者を志すことにしたことなんかを、初めて詳しく喋った。よく喋るのに全然うるさくなくて、静かな印象のままなんだ。めずらしいよ、あんな人は」
「やっぱりみんな、いろいろあるね。抱えて生きてる」
「俺もそう思ったよ。でも、そのあと彼女が言ったんだ。『すごいダンサーだと思ってる。私はあんなふうに踊れない。非凡な才能』って」
「指のこと?足の」
「いや、そうは思わなかった。卑屈や嫉妬じゃなく、そういう褒め言葉だっていうのもわかってた。下手と言われれば悔しいし、腹も立つ。いい評価をされれば、それなりに喜ぶ。でも、違うんだよ」
「高く評価してくれた、っていう感じがするけどな」
「非凡な、という言葉の持つ鋭さってわかる?もっとすごいやつは山ほどいて、俺には力も自信も足りない。でも、そうして線を引かれると、なんともいえない孤独が起き上がるんだ」
「非凡の人をいっぱい知る、というのはどう?」
「非凡というのは数が少ないってことだろう」
「直訳すると、ちょっと違うかも。でも、そうだね、数は少ない方のことを指してる」
「その後も食事を重ねたし、何度も車を停めて仮眠しながら遠方まで朝陽を見に行ったことだってある。グループを合流させて、パフォーマンスの機会を得たし、お互いに、ものすごいスピードで磨きをかけたよ、それぞれのスキルに。彼女の出す音も、熟成したワインのように深みを増して、俺たちは、その音に身を委ねるだけで、最高のダンスを披露できたんだ。楽しかったよ。やればやるほど、迷いも不安もないように思えた。でも、彼女は会うたびに言うんだ。あんな動きをできる人は他にいない、いくらでも見ていたい、って。自分の演奏で踊るのを、ずっと見ていたいって」
「そんなに嬉しいことってないよ」
「演奏するときも、話すときも、彼女はいつも静かだった。物腰が柔らかいとか、優しいとか、そういう説明じゃ足りないんだ。傍にいると、自分が造りの荒い製品みたいに思えたし、発する言葉も動きも、なにもかもが雑なように感じたんだ。静音設計の精密機器みたいに、落ち着いた声のトーンで褒められるたびに、俺は焦った。半人前程度の実力しかないくせに、このままどんどん進んで大丈夫なのかと不安になった。彼女は彼女で、自分の表現の限界を感じて、悩んでた。ものすごく控えめな表し方だったけど、演奏にその憂いが出てくることがあって、俺にはその音はきつかった。説明も説得も違う気がして、俺はもうただ踊るしかなかった。どう思わせるかとか、こういう感じにさせるとか、そういうことも全部排除した。切実なままに極限まで思い詰めて、踊るだけ。もう、ほとんど、祈りみたいだった」
「まだいちども見たことはないのに、気迫とパワーがすごかったのが伝わってくる」
「彼女は他の人には変わらず伸びやかな演奏を続けていたけれど、焦っているのが俺にはわかった」
「ライバル?」
「違うんだけど、そういう要素もあったかもしれない。それで俺は一曲一曲、次回もその次も、どうか彼女の音に濁りが入りませんようにと、本当に祈ったんだ。たとえ彼女との関係が変わったとしても、あの音色を聴けなくなるのは耐え難かった」
「シェヘラザードみたいだね」
「彼女は悪い王様じゃないよ」
「そこじゃなくて、一曲一曲祈るようにっていうところが。やめたら命を落とすのはジョンのほう」
「まさにそんな感じだったよ。止まったら死ぬかと思ってた。ワーカーホリックでも多動でもなく、もうほとんど妄信的に」
ジョンが言葉を発するたびに蝋燭の炎が揺れて、まるで踊っているみたいだった。
不定のリズムで、波打つようなオレンジ色。
この屈強な男の外見。その姿のずっと奥で、叫ぶように祈りの舞を捧げ続ける彼の本体を見たような気がした。さも見たことがあるかのように、僕は言った。
「ほら、この踊りを見ていたいんでしょう、だから辞めないで。明日はもっと、明後日はもっと、見たこともないような舞を見せるから、って毎日、毎日ね」
「結局、8年前のハリケーンで街は壊滅。彼女は国に帰り、グループは解散。俺は流れ流れてここにいる。今でも演奏は続けてるみたいだよ、YOUTUBEで見つけた。あの切羽詰まったように込み上げてくる音色はもう聴こえなかった。PC越しだからなのか、音が変わったからなのかはわからない。相変わらず、魅了するような美しい音で懐かしかったけど」
「激しい経過、物語みたいだね」
「誰でもそうだろうと思うよ。生涯を詳しく話せば、物語にならない人なんていない。普通なんて、平凡なんてないんだよ」
「うん、僕もそう思う」
4本目のクラフトビールを空にして、ジョンは席を立った。「よく喋った!」と言って笑いながら。湿っぽい余韻に浸るでもなく、打ち明け話の後の神妙さを発するでもなく、すっきりとした明朗さしかなかった。
前よりも彼のことを身近に感じた。
僕も祈るみたいに仕事をしてたから。
祈りながら、ではなくて祈るようにものを作ってた。何年も。
細部までこだわり抜いて完璧なものに仕上げる時間、その作業、脳と指先の活動は、一筋の光線を探し当て、カチッとはまる地点に一気に照射するようなイメージで、中毒性が高い。
もうほとんど儀式のように、机上を整え、一切の無駄を排して、挑む。
あの瞬間の緊張感が、僕は好きだった。もちろん、今も変わらずに。
ジョンは重厚な印象を残しながら、品のある軽快な身のこなしで店を後にした。
その扉の右手の壁は広くて白い。
プロジェクターは、その壁に大きな管弦楽団のステージが映し出していた。
開幕のラ音が次第に広がっていく。
To be continue..