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HAPPY TORTILLA
2020年4月20日 07:55
正方形の新しい部屋に、売らなかった家具や家電を配置する。半分開け放った窓から、内陸部特有の乾いた風が吹き込む。3年ぶりの春の匂い。1DKに置く具材が変わらないから、なかに居ると転居した感じがしない。静かで、あまりにも静かで、僕はいつよりも世界の果てにいるみたいだ。この1年のできごとは、人類にとっては惨事だが、生物学史的にはまた別の見方もあるのかもしれない。この惑星の歴史の上で、何度も
2019年2月9日 21:23
少しもくたびれない、スタンドカラーの上着を脱いでハンガーにかける。カジュアルな装いで十分なくらいに、過ごしやすい暖冬だ。仕事がひと段落すると、突然に和そばを食べたくなった。だいぶ前にお土産でもらった乾麺を茹でるお湯を沸かしながら、魚介のフリッターを揚げる。外は季節外れのスコール。大量の水が地面を打ち付ける音と、窓からの景色と、新鮮な揚げ油の匂いと、1DKの素っ気ない内装と、季節感のない素
2019年2月3日 21:09
素晴らしい目覚めの早起きで、歯磨きをしながら朝陽が昇るのを眺めた。1日のスケジュールを思い浮かべて、タスクアプリを立ち上げて準備だけは万端だった。洗濯物まで干し終わったところで、視野の上の方に閃光が走った。水平線の向こうの空には、低く立ち込める雨雲。 偏頭痛だ。ファンが回って熱くなったPCと似たようなもので、脳に負荷をかけすぎたときに起こりがちだが、気圧や体内のバランスの変化でも発生する
2019年1月30日 23:17
「挽肉好きでしょう、マスター」「好きだね、挽肉を使ったレシピがものすごく多い」「王道だけど、僕もこういうハンバーグとか好きすぎてどうにもならない」粗挽胡椒が効いていて、肉と玉葱とつなぎのバランスが絶妙な合挽き肉のハンバーグ。フリルレタスの黄緑色は蛍光色と同列の鮮やかで、小さくて細長いトマトはまるで絵の具で描かれたように、厳密な赤色を艶めかせていた。「シンプルなものは、いいよね」
2019年1月21日 21:59
「めずらしい選曲!」「なかなかいいでしょう、たまにはね」「クラブみたい」「人混みはどちらかというと苦手だけど」カフェ・マゼランはライブハウスやダンスホールさながらの熱気に満ちていた。といっても、客でいっぱいで暑苦しいのではなく、音楽だけで活気が漲っていた。「なんか、鼓舞されるというか、突き上げるようなパワーがあるね」「お酒を中断しててね」「え、関係ある?」「濃い珈
2019年1月20日 21:10
ベッドリネンを洗濯機に投げ込み、ミントの効きすぎたペーストで歯磨きをする。冷たい水道水で顔を洗うころにはすっかり目も覚める。身支度をしながら眺める動画の懐かしい方言。ディスプレイに映る旅人には、窓の外に長く続く海岸線が似つかわしい。風景の中に置いたPCは、現実と、もうひとつの現実とを容易く繋ぐ。午前中のうちに部屋を片付ける。週ごとに片付けているから、それほど荒れてはいないけれど、床掃
2019年1月16日 07:42
信じられないことに、ジョンは翌週にエストニアの彼女とオンラインでのやり取りを経て再会の約束を果たした。思い出を話したら、我慢できなくなったから連絡したと言っていた。清々しい顔の印象が、とてもよかった。ひとりの人として惹かれるのにも十分な相手だったのだろうけれども、2人はその音色やパフォーマンスに表れる本質的な部分で深く強く結び着いている。その熱や火花や、ときに痛みを伴うような化学反応までもが、美
2019年1月13日 18:23
ほんのりと檸檬の香る水。すっきりとした後味、透明な美味しさ。それを一気に飲み込んで、ジョンは言った。「はやく大人になりたかったよ、俺は」横顔の睫毛の長さ。その向こうに、忙しく注文を取ってキッチンに入るマスターがいる。バイトの女の子は、まだ帰省しているらしい。「大人に?」「子どもにはない自由がある」夏のライブで出会って以来、ジョンとはときどきこのカウンターで顔を合わせる。
2019年1月11日 08:17
「どんなに緻密に注意を払っても、影響はなくせない」グラスに残ったアイスティーの氷はすっかり溶けて、マスターは濃いミルクのチャイを淹れてくれた。僕の眠気はとても強く、いつもなら夜でもカフェインたっぷりの珈琲をいただいてから帰る。まろやかな甘さにゆるんと溶け込むスパイス。芯から温まる。「そうだね、でも影響を与えることがあっても、痕跡を残すのはしたくないんだ。影響させるって、刺激を受けたり響
2019年1月6日 14:45
「猫の目というのか、秋の空というのか」そう言いながらマスターがカウンターに置いた大ぶりのグラス。透明に澄んだ大きな氷を入れたアイスティーは、きんと冷えて身体に馴染んだ。雑味なく清冽で、清められるようだった。「うん。でも、ただ変わりやすいとかっていうんじゃないんだよ。気がついたら宙を舞うみたいに飛んでいて、地上に立ったときに感じる重力みたいなのに参ってしまう」「比喩的でわかりやすいよう
2019年1月5日 19:54
カフェ・マゼランに向かうとき、坂を登る。右手には海、左手には林、その奥には街がある。さらに内陸にある赤茶けた山々を望みながら、その景色を見るのが僕はとても好きだ。林からは、フクロウの低い鳴き声が聴こえる。木魚みたいな、鎮静効果のある一定のリズムで。病み上がりの時期を終えて、店の扉がようやく軽く感じられるようになってきた。新しい年を迎えるまでに幾度かのディナーを経て、たっぷり養生できた
2019年1月1日 15:19
12年ぶりの風邪、命に関わる大病かのような苦痛を伴う体験だった。絶え間なく脈打つ頭痛は、まるで雷鳴。身体の内側から吹き出すような高熱は、ほぼマグマ。それにもかかわらず、体表は悪寒に包まれていた。文字通り、這いつくばって冷蔵庫までたどり着き、ミネラルウォーターを切らしていたことに気づいた時の絶望感。「大病だよ、風邪は」常温のジャスミンティーを出しながら、マスターが言った。 すうっと
2018年11月20日 07:50
「ながらくお待たせしました」 「待ってないけど、ひさしぶりだね。いらっしゃい」 2週間も『マゼラン』に来なかったのは、この土地に来て初めてのことだ。この店の名前を、僕はたった今、知った。扉と同じくらいに古いボードに文字が浅く彫られていて、色もついていないから、よく見ないと気がつかない。 「砂のお城の上に旗が立っていて、それを目指して階段を登ってて」 「いきなり、だね」
2018年9月25日 07:44
「夢を見てたのは、僕のほうなのかもしれない」 大きくなりすぎたテーブルヤシの向こう側の席から、聴き慣れた声がした。街中のレストランの、洗練されたデザインのダイニングテーブルとチェア、ピアノとヴィオラの室内楽。いつもとはずいぶん雰囲気の違う店で、こことは違う店でよく聴く声を、僕はキャッチした。 「人の中で生きていけると思ったんだよ、お前といたとき。とんだ勘違いだったけど」 話し