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22. 偏頭痛 【マジックリアリズム】

素晴らしい目覚めの早起きで、歯磨きをしながら朝陽が昇るのを眺めた。
1日のスケジュールを思い浮かべて、タスクアプリを立ち上げて準備だけは万端だった。
洗濯物まで干し終わったところで、視野の上の方に閃光が走った。水平線の向こうの空には、低く立ち込める雨雲。

偏頭痛だ。
ファンが回って熱くなったPCと似たようなもので、脳に負荷をかけすぎたときに起こりがちだが、気圧や体内のバランスの変化でも発生する。スローダウンの指令でもあるので、予定を大きく変更してTo doリストの項目を減らした。
ゴリ押しで取り組むと、大変にクオリティーの低いものばかり出来上がって結局気に入らなくて、倍以上の時間をかける羽目になるだけでなく、そのときにかかる負担は一層痛みを激しくさせるのだ。
思いつくアイデアはあるのに、取りかかれない焦りもストレスになるけれど仕方がない。仕方がない、と本当には思い切れないところをねじ伏せて、HPの簡単な作業だけに集中して、陽が暮れてから夕食をとりにやってきた。

マスターは、弾くとキーンと音のするシンプルで美しいグラスを拭きながら言った。

「頭痛持ちなんだね、知らなかった」

「20代の終盤から。打ち込み過ぎることのブレーキみたいになってる」

「建設的な受け止めだね」

「そうでも思わないとやっていられない。もうちょっとソフトなやり方で止めて欲しいものだよ」

「それだと効き目がないでしょう」

「仰る通りです。珈琲ください」

「大丈夫なのかな?カフェインは痛みを誘発するとか言う人もいるけど」

「僕は飲んだ方が調子がいい」

「では、痛いのが飛んでいくように気持ちを込めて淹れるね」

「ありがとう」

酔うような、うっとりするような深い香りがカウンターを越えて漂う。この体調のときには、音や光や匂いがクローズアップされて感じるので、刺激を避けがちになるけれど、マスターの淹れる珈琲はむしろ薬膳のような効果がありそうだと、身体の方が判断しているみたいだ。

「はい、どうぞ。熱いから、ゆっくりね」

「いただきます」

「焙煎もうちでしたんだよ」

「あ、美味しい。漢方みたい」

「褒められてるのかはよくわからないけど、効き目がありそうってこと?」

「食道から胃に落ちるときに、弦楽器が響くみたいに香ばしくて深い香りが、広がっていく感じがする」

「不調時とは思えないような品評をありがとう」

「余計に敏感なのかもしれない」

「少しでもよくなるといいけど」

染み入るようなブラウンの魔法を少しづつ味わう。

「マスターは、持病とかない?」

「ここに来て花粉症からは解放されたけど、15年くらい前に手術してるから健康には気を使うようにしてるよ」

「手術?」

「うん、脳にできものがあった」

「それってけっこう危機一髪だったんじゃないの?」

「そうみたいだけど、手術中は意識もないからね」

「飄々と言ってるけど、人生の変わるような体験かと」

「どのみち、変える予定だったからね」

「再発はない?」

「神のみぞ知る。でも、今のところ調子はいいよ」

「びっくりした」

「そう?毎日、誰かは手術を受けてるんだし珍しいことじゃないよ。毎日誰かが病気の痛みを感じていて、誰か生まれて、誰かは死んでる」

「なかなか一般化できないことだと思うけど。痛みって極めて個人的な体験でしょう。僕なんて今朝は絶好調で始まったのに、曇りの天気と一緒にこの頭痛がやって来て、なんかもう絶望的だったもん。大げさだけど、これがあるならもう一生自由になんかなれない、っていちばん痛いときは思うんだよ、真剣に」

「痛いところがあるとね、ポジティブな思考は難しいよね。通り過ぎれば嘘みたいに元気になるけどね、トニーくんは特に」

「え、なんで知ってるの?頭痛のこと今日はじめて言ったのに」

「見てたらわかる。頭痛持ちってことじゃなくて、身体の調子がメンタルにそのまま直結しやすいってことが」

「今日、いやな感じになってる?」

「そんなことないよ、治ってきてから来てくれたんでしょう。復興の表情が見て取れる」

「ぴったりかも、まさに復興中。毎回、すごい災いだもん。雷が頭に刺さってるのかと思うくらい。でも、もう大丈夫そう。今日は早く眠れば明日はきっと本調子」

「健康第一って、言うほど簡単じゃないよね。身体がある限り、痛みとは別れられないし。風邪だってたまにはひかないと、なったときのダメージがすごいし」

「マスターが弱ってるところ、見たことなくて想像できない」

「今はね、料理する仕事してるから自分で作っちゃうしね。下り坂に入った時点で、食材とか調理法とか考えてる。ちなみに、今晩は柔らかく煮込んだ鶏肉の、あっさり照焼き丼なんてどう?」

「うん、柔らかいものがいいような気がする。ありがとう」


キッチンに向かうマスターの背中に、家族的なものとプロの料理人の気配を同時に見ながら、僕はまだ温かいマグカップを両手で包んだままじっとしていた。

じんわりと染み渡る珈琲には、化学式で表しきれないし見ることもできない成分が溶け込んでいるような感じがした。


To be continued...


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