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25.After disasters【マジックリアリズム】
正方形の新しい部屋に、売らなかった家具や家電を配置する。
半分開け放った窓から、内陸部特有の乾いた風が吹き込む。
3年ぶりの春の匂い。
1DKに置く具材が変わらないから、なかに居ると転居した感じがしない。
静かで、あまりにも静かで、僕はいつよりも世界の果てにいるみたいだ。
この1年のできごとは、
人類にとっては惨事だが、生物学史的にはまた別の見方もあるのかもしれない。
この惑星の歴史の上で、何度も繰り返されているように、
大河の瀬と淵のように、幾度も。
僕のように隣街に越した人もいたけれど、出国した人たちもたくさんいた。
街の人口はおよそ4分の3になった。
競合していたモールは片方が残り、
物価は1.5倍に上がった。
街中どこでも無料wi-fiを使えるようになって、
相手の素性を知らずに受ける案件が倍増した。
どこに行ったのかわからない仲間もいるし、
遠くなってからかえって親しくなった友人もいる。
まるで近所の生家に帰るみたいに通ったカフェ「マゼラン」。
車で2時間の距離になった。
「車で2時間じゃあ、国境よりも遠いね」
マスターは少し痩せたように見える。
引き締まったといったほうがいいのかもしれない。
「心の距離はこっちのほうがうんと近い」
深い緑色の瞳を見て、僕は言った。
「懐かしいね、こういうの」
「ほんとうに」
近所とはいいがたく、ここに来るのは「お出かけ」だ。
夕飯を食べに来るというよりは、小さくバカンスをしに来る場所になった。
ここに来る多くの人は、観光や出張だから、僕もその多くの人の一員になったってことだ。
何年住んでもよそ者はよそ者、そういう思いもあった。
でも、住居を借りてそこで生きているのと、よく知っている場所だから何度も来ているのとでは、なんというか、
重みが違う。
マスターは前者で、もう何十年もこの地に根を生やしている。
「新しいところはどう」
煎りたてで、挽きたての珈琲に熱湯を注ぎながらマスターが訊く。濃い茶色の木目調と、チェロの音色を思わせる深い薫りが立ち込める。
「わるくないよ。ここほどよくもないけど」
僕たちは、会えなかったときのことを事細かに話すことはしなかった。
それでも、言葉の端や声の質感から感じ合って、それだけでもう十分だった。
地底のトンネルみたいな時間を、それぞれに乗り切ったんだ。
きっと、お互いに。
「なにを召し上がりますか。カレーかな、やっぱり」
「うん、キーマカレーできる?ゆで卵がのってるやつ」
「朝飯前だよ、作るのは夕飯だけど」
細い三日月みたいな目で笑うマスターの顔。
スパイスの効いた豚挽肉のカレー、ピーマンのかすかな苦味と、はちみつのまるい甘さ。
お布団の中にいるみたいに、僕はこの店の、この席でぬくぬくとして家に帰った子どもみたいに笑う。
「よく来てた頃には訊いたことなかったけど、マスターって料理をどこで覚えたの?」
「留学してたときにバイトで働いてたレストランとか、ちょっとは教えてもらったかな」
ジュッと音を立てて、豚の脂のいい匂いをさせながらマスターが言った。
「修行したわけじゃないんだね」
「自分で欲しい味を究めていくのが修行かも」
「うん、そうかも」
目の前のことを続けることの力強さ、実直に、地道に。
出して創っては、並べて、洗って、また仕舞って。
飛び回って、持てるエネルギーを全方向に放出するみたいに動いてた僕にとって、
この種の強さは憧れでもあるし、叶わなさも感じさせる。
出来上がったカレーをカウンターに置いて、マスターが話の続きを始めた。
「そのバイトでね、島がまだフランス領だったときの名残が強かった頃のことなんだけど」
「うん」
「いつも野菜とか果物を仕入れに行く市場があってさ。そこにお腹の丸い大きいシェフがいてね、なんということもないお喋りしながら、買い物してたんだ」
「ぽっちゃりおばちゃん。市場なのに、シェフ?」
「グレートマザーってよばれてた。そのときは市場で卸をしてたけど、シェフの期間が長かったんだって。いつも、ちょっとした手作りのパウンドケーキとか、お惣菜とか分けてくれてね」
「なんか、美味しそう」
「うん、腕は確かだったと思う。私が帰国する直前に挨拶に行ったときに、彼女が以前はホテルのレストランにいたことを教えてくれた」
「だからかな、離れてからは彼女のイメージはグレートマザーよりもシェフ」
「その人の味も、マスターの舌に残ってるのかもね」
「それはあると思う。ほんとうに美味しかったから。もっと訊いておくんだった、味付けとか、スパイスの調合とか。彼女、お別れの挨拶のときに言ったんだ。”どこにいても幸せになってね”って。分厚くて、やわらかい手で私の手を握って。料理人の手だった」
「うん」
「ふつうの言葉なんだけど、すごく深く響いた」
「伝わるものがあるよ、僕にも」
「どうしてるかな、今ごろ。きっとね、大人になってから思うことだけど、私のなんともいえないような、分類できない雰囲気は誰が見ても感じるんだろうし、彼女もそれは思っていたんだろうね。幸せになってね、っていうのが、同情でもお節介でもなくて、なんていうか、家族みたいな、仲間みたいな、そういう感じがした」
中性的とも違う、ジェンダーレスな気配を纏うマスター。
何年経っても、生き物としての「個」として、存在としてそこに立っているように思えた。
キーマカレーも、つけ合わせの甘酸っぱいコールスローも、はちみつジンジャーのカクテルも、ココナツアイスも、
変わらずに安定した味は、心身を弛緩させた。
帰還と、歓迎と、回帰と、過去と、未来の、すべてがこの店にある。
訪れた人と、迎え入れる人の、思いと人生と命と、すべてが。
残ってくれて、ありがとう。
残してくれて、ありがとう。
to be continued...