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11.ナイスミドル 【マジックリアリズム】

12年ぶりの風邪、命に関わる大病かのような苦痛を伴う体験だった。
絶え間なく脈打つ頭痛は、まるで雷鳴。
身体の内側から吹き出すような高熱は、ほぼマグマ。
それにもかかわらず、体表は悪寒に包まれていた。
文字通り、這いつくばって冷蔵庫までたどり着き、ミネラルウォーターを切らしていたことに気づいた時の絶望感。

「大病だよ、風邪は」

常温のジャスミンティーを出しながら、マスターが言った。
すうっと香る、ハーブティー。強制力なく、エレガントに、しかし確実に鎮静効果があるような気がしている。

「寝込んでる間に、子どものころに学校にいた用務員さんのこと思い出した」

「用務員さん?」

「うん、なんていうかね、ちょっとチンパンジーみたいな外見のお爺さん。その日がちょうど退職を控えた最後の集会だったと思う。用務員さんが、理科実験室で試験管を洗ったときに怪我をしちゃったっていう話だった。ビーカーだったかも、あれ、メスシリンダーだったかな」

「すごく細かい記憶」

「うん、用務員さんね、すごく優しかったんだ。ヒビが入ってるのに気がつかずに洗い始めたら、手を切っちゃったんだって。幸い、大怪我にはならなかったみたいだけど、いっぱい血が出てびっくりしたって。みんなには怪我して欲しくないから、この話をしようと思ったって言ってた。普段はほとんど接点もなかったけど、自分の退職の挨拶のときに、“怪我しないように気をつけてね”っていう話をするなんてさ。結構みんな聞いてない感じだったけど」

「聞いてないように見えて、意外と覚えてた子もいたかもよ」

「そうだね、うん、印象だけで言うのはあまり好ましくないね。用務員さんが残した印象は朴訥で、とても優しかったんだ」

「そのことを覚えていて、寝込んだ晩に思い出すトニーくんも優しい印象を与えてるよ」

「そうなのかな。とにかく、そのとき壇上で話してた用務員さんの仕草や、口調が、支えみたいになってた。試験管よりはよっぽど分厚いけどいつものグラスを洗うときにも、いつもより多めに気をつけたりして」

ジャスミンティーの香りに、少しだけ潮の香りが混じって、海岸に特有の、まろやかな時間が流れる。

「もうほとんどいつも来てるから、正直すこし心配した」

ほんの僅かに眉間に寄った皺、若者にはないミドルエイジの魅力。
話を聞いて、ご飯を作ってくれる家族のようで、でも違う。

「連絡しようか迷ったけど、しなかった。学校や仕事じゃないし律儀すぎるのも変かなと思って」

「そう考えてること自体、むしろ律儀だよ」

「そうかな。でも、嬉しい。来るものだと思ってもらえてて」

「トニーくんはここに来てまだ1年も経ってないけど、もうすでに常連」

「お粥明けの中華は美味い」

「病み上がりに一杯どう?優しいお酒」

「紹興酒?ちょっとだけいただこうかな」

外の鳥が恐竜みたいな声で鳴く。
恐竜の声を聴いたことはないけれど、僕はなぜかそう思った。

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夜が更けるまで、マゼランで過ごした。
正しく言うと、僕はこの土地に来て、初めて本格的に酔ってしまった。
そのまま眠って、見たことがない空間で朝を迎えた。
店の奥の、キッチンのさらに先にあるリビング、ちょうどいい硬さのソファー。
調度品はどれもとても質のいいもののようで、室内のトーンは一定の波動を保ち、品よく落ち着いていた。
エキゾチックでツギハギ感のある店舗の雰囲気のそれとは別物だが、同じ人物が設えたことが感じられる。
書斎コーナーの横に、ラフな感じで立てかけてある弦楽器。チェロだろうか。

濃いブラウンのダイニングテーブルの上に、クラフト素材の付箋が貼ってあるのに気がついた。

  おはよう、キッチンに朝食を置いてある。
  病み上がりに飲ませてごめん。
  仕入れに出てる。
  帰っていいからね。鍵は植木の間に、よろしく。

ややクセの強い字。
その文字列は、とてもダンディーな気配を放っている。
無造作に置かれた、使い込んだ古い革製のキーケース。

「仕入れって…」

声が掠れて、すこしだけむせそうになった。
キッチンは店舗と共用。
木でできた小さなトレーの上のスープとグレープフルーツ、10センチ四方の小さなトースト。
リビングに運び、ソファ同様に座り心地のいい椅子にかけて、ゆっくりと口に含む。
根菜はコンソメのスープにとろけて甘く深い後味を残す。
トーストの上で程よく焦がしたチーズのミルキーなコク、すこしずつ身体が起きてくる。

酔って眠って、意図しない場所で目覚めるなんて何年振りだろう。
二日酔いの鈍い頭痛は、つい先日の風邪のそれとは違っている。
バーで出す料理と遜色な美味しさの朝食をもらい、僕は外に出た。
仕入れから帰ってくるマスターを一目見てからとも思ったけれど、お腹よりもなんだか胸がいっぱいだった。

あの恐竜のような鳥の鳴き声はもう聞こえない。
代わりに、カラフルな小鳥のさえずりが、遠くから聴こえていた。

To be continue...

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