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シャンカラの不二一元論の問題点と意外な魅力とは?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」

シャンカラの不二一元論の問題点と意外な魅力とは?岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」

覚者:今回は、シャンカラのアドヴァイタ・ヴェーダンタ(不二一元論(ふにいちげんろん)⇨ノンデュアリティ(非二元)のウパニシャッド思想)の問題点について、検討しよう。一見完成度の高い、シャンカラさんの不二一元論だけど、やっぱり、問題点がないとは言えないわけじゃん。たとえば、お腹が痛くなったらどうするの?とかさ(苦笑)。

ボク:お腹が痛くなったら、お医者さんにいくか、お薬を飲むか、安静にしてるか、まあ、なにか対処しないと、痛いままだよね。苦しいよね(苦笑)。

でもさ、シャンカラさんの説は、二元論のサーンキヤ哲学(「見る者」と「見られるもの」の二元論)の発展型だったでしょ。サーンキヤ哲学の二元論の体系までは否定しないみたいな(笑)。「見る者」=ブラフマン=アートマン=真我だけが実在で、外の世界や、自分の五感、身体、心に至るまで、すべて「見られるもの」だ。そして、「見る者」と「見られるもの」との結合はない、と説くわけじゃん(笑)。じゃあ、お腹が痛くなっても、それは、「見られるもの」の話で、本当の自分=真我=「見る者」とは、関係がないから、理論上は、問題ないってことになっちゃう(笑)。でも、お腹が痛いという問題は、ちっとも解決してないわけじゃん(笑)。

あの、昨日の記事で引用した、飲茶さんの、100発殴らせれば、その人が口先だけの人なのか?本当に悟った人なのか?がわかるという話があったじゃん?あれも、この問題と関係あるよね?だって、「五感とか幻想だから♪」みたいに言うんだから、本当に悟った人ならば、「イタタタタッ!!ヤメテー!!!」みたいにならないはずじゃないってことになるから(笑)。

飲茶さんの提示した、100発殴らせろ、そしたら悟ってるか悟ってないかがわかるって話が、シャンカラさんの教説でも妥当すると(笑)。
結局、「この現象世界って幻想だから♪」なーんて言ってるけれども、そう思ったり、信じたりしたところで、なーんの解決にもなってないよね?(笑)。シャンカラさんは、真我で至福で、悟ってるから、問題ないって言い張るんだろうけどさ(笑)。

あと、なーんか、日常生活が味気ないものになるよね。たとえば、極上の肉厚ジューシーステーキを、お腹いっぱい食べたとしよう。そのとき、食べてるアナタは、極上の幸せの中にいるわけじゃん。でもさ、「現象世界とか五感とか幻想だから♪」みたいになっちゃうと、美味しいステーキを食べても、それって幻想だから、「極上の肉厚ジューシーステーキ」や「美味しさ」という対象も実在しないことになっちゃう。それじゃあ、なんか味気ないよね(笑)。

そうだね、日常生活がなーんか味気なくなってしまうって問題は、確かにあるよね。シャンカラさんの教えを本当に悟って、実践した場合、せっかくの現象世界での楽しみも、全部非実在になっちゃうから、本当につまらない生活になっちゃう(笑)。

ということは、シャンカラさんの教えは、話半分に聞いておいて、瞑想や内省などの、実践を通じて、以上の問題をクリアしなきゃ、本当はいけないんじゃないの?っていうことになるよね(笑)。

シャンカラさんは、知識(ジニャーナ)だけでよく、瞑想や内省などの実践は、行為自体=アートマンと誤解しかねないから、不必要だし、むしろ害があるみたいにいうわけじゃん。(この点は、ChatGPTは、その理解には注意が必要であると言う。だから、間違っているかもしれないけれどもネ!。)でも、やはり、現象世界がリアルに感じられる、キミや、読者のアナタなどの悟りを開いてない一般人は、知識(ジニャーナ)だけじゃなくて、瞑想や内省などの実践を通じて、実際に、現象世界から感じる「心や身体」の問題を解決しねーと、本当の至福・悟りの境地にはたどりつけないんじゃないの?ってことなんだよね(笑)。この点について、岡本さんは、次のように書いている。

 したがって、確かに私は真我で至福であっても、体も心も自分のもので大切にしなければならない、という中立の立場を取ることが好ましいと言えるでしょう。実際には心や体もまた苦しみから解放せねばならず、心の苦しみを解決する施策、体を苦しみから守るための実践として、ヨガや瞑想などを考慮する必要もあるからです。

本書より

例の問題もあるよね!!

この過去記事で、検討した、キミの説。つまり、この世界は一見実在するように見えるが、究極的には、幻想で実在しない。しかし、「すべてはブラフマンである」と悟れば、ブラフマン=真我だから、もし世界が真我の現れであるならば実在する。つまり、自分の外には世界はないが、自分の中には世界があるんだ」、みたいな説。もしこれが正しいとなると、ここで、以上の検討とは異なる議論が必要になるよね。実は、これのエビデンスになりそうな箇所を、ラマナ・マハルシ「真我」の中に見つけたので、引用する。

 世界が真我から分離していると見なされたとき、それは非実在であり、世界が真我として見なされたとき、それは実在なのです。

ラマナ・マハルシ「真我」より

いわゆる「例の問題」=「自分の中にある真我の現れとしての世界は、実在するのだから、痛み、喜び、悲しみなども存在するかも?」、って問題も出てくるよね?

シャンカラさんは、「現象世界とか幻想だから♪」みたいに言ってたけれども、「すべてはブラフマンである」ということを突き詰めて考えていくと、別の視点から、自分の中の世界は実在することになるので、もしこれが正しかったら、アレレ、どう考えたらいいんだろう??って混乱するよね。まあ、たぶん、これは、古くからあって、そして、最新の議論でもあるんだろうけどさ(笑)。

「相対的な現実と絶対的な現実」という論法を用いれば、うまく説明がつきそうだけども、なんか歯切れが悪い議論になってしまう。やはり、この論法をとらずに、「すべてはブラフマンである」と悟れば、世界は、自分の中に実在することになる、という結論のほうが、理論としては、美しいよね(笑)。でも、ChatGPTは、この場合も究極の視点から世界は幻想であるとする。やはり「ブラフマンは不変である」ということからくる譲れない結論なんだろうけどさ。

でも、この結論をとるならば、究極の視点に立たなければ、さっき言ってた問題は、解消するわけじゃん。お腹が痛いときは、お腹が痛いというのを実際に認めて、なんらかの対処ができるし。100発殴られたら、実際痛いんだし。そして、たとえば、極上の肉厚ステーキをお腹いっぱい食べたら、実際に極上の幸せを味わえるように、日常生活も味気ないものにはならないんだよね(笑)。

アドヴァイタ・ヴェーダンタと引き寄せの法則?!

現代の哲学者やマスターたちが、アドヴァイタ・ヴェーダンタについての以上の議論について、どう考えているかが、気になるけど。
この点について、例えば、さっき挙げた過去記事で引用したけれども、「はじめての非二元・ノンデュアリティ」の著者の岡本さんによれば、岡本さんだけの独自の見解か?まではわからないけれども、「私はブラフマンなのだから、私の中に世界があると理解するなら、世界は自分の意志でいかようにも変容できるよね?」みたいに書いてたわけさ。もう一度引用すると・・・。

(中略)このように、私はブラフマンであるという視点を持つとき、その人の世界との付き合い方は一変します。あなたが世界の中にいるのではなく、世界があなたのなかにあると理解するなら、世界は自分の意志によっていかようにも変容させることができるからです。

岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」より

ここは、いわば、「引き寄せの法則がある」みたいな、解釈も成り立つわけだよね?(笑)。岡本さんという、いわば、現代の哲学者・マスターみたいな人が、そうともとれる考え方をしているのだから、なんか、面白いことになるなーと(笑)。「引き寄せの法則」=「自分の思考や感情、信念を整えることで、現実を自分の望む方向に導く法則」(ChatGPTの表現)が働く、みたいな可能性が、アドヴァイタ・ヴェーダンタの教説には、あることになるからねぇ(笑)。

もしそうなったら、みんな、アドヴァイタ・ヴェーダンタいいじゃんって、信じる人達が押し寄せそうじゃん(笑)。

アドヴァイタ・ヴェーダンタで、もし「引き寄せの法則」が働く、ということになったら、読者のアナタも、思わず、アドヴァイタ・ヴェーダンタを信じたくならない?(笑)。なんか、面白いことになってきやがったな(笑)。
(ただ、ChatGPTによれば、「「世界は自分の意志によっていかようにも変容させることができる」という考え方は、引き寄せの法則と解釈できますが、その実現にはポジティブな意志や感情だけでなく、深い自己理解や内面的な変容が求められます。この観点から、自己の本質を知ることが、現実を変える力の源泉となるのです。」ということなので、この点で、注意が必要ではあるが。)

そういう意味では、アドヴァイタ・ヴェーダンタって、現代でも、色んな可能性が見いだせる、魅力的な教説かもしれないね!(笑)。8世紀という1000年以上もの大昔に、こんな教説を考え出した、シャンカラさんは、本当に偉大な天才だねー!!(笑)

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