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2024年10月31日の悟り再考。間違いではないけれど解釈変更!?島岩「シャンカラ」ラマナ・マハルシ「真我」岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」前田専学「ヴェーダンタの哲学」
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2024年10月31日の悟り再考。間違いではないけれど解釈変更!?島岩「シャンカラ」ラマナ・マハルシ「真我」岡本直人「はじめての非二元・ノンデュアリティ」前田専学「ヴェーダンタの哲学」
青年:あなたは、上の記事で、
まず、世界が消えた。(中略)次に、汝それなり自体も消えた。(中略)そして、何も無くなった。「完全なる無」だ。あえて言語化すれば、「沈黙」・「なんも言えねー!!」・・・みたいな境地に達したんだわ(笑)
と書いていた。そして、
たしかに、「完全なる無」ではある。しかし、その「完全なる無」を実は「認識」していたわけじゃん。
要するに、一見「完全なる無」だと思ったけれども、それを「認識」し「鑑賞」している、純粋意識=アートマン=ブラフマンが存在しているわけさ。
要するに、「汝それなり」は無くなったようでいて、無くなっていなかったんだわ。
「完全なる無」であることに驚いちゃったけれども、これは、上のように、よく考えたら、「汝それなり」の悟りだよね?
とも語っていた。
でも、アートマンは、感覚器官、統覚機能、自我意識とは関係ないのだから、「完全なる無」を認識するのはおかしい。
実は、「完全なる無意識」が、汝それなりの悟りなんじゃないのか?
覚者:鋭い点をついてくるね。感覚器官とかと関係ないアートマンが、「完全なる無」を知覚することはありえないということだね。
そうだ。だから、あなたの悟りは、ニセモノだ!
たしかに、上の記事の悟りの解釈は、間違っていたかもしれない。
ただ、「鑑賞者」としてのブラフマンを認める見解に立つと、決して間違ってはいない。
ただ、私も勉強が進んできてね。
「鑑賞者」としてのブラフマンを認める見解から、「鑑賞者」としてのブラフマンを認めない見解に、見解を変更しつつあるんだ。
この点、「鑑賞者」としてのブラフマンを認めない見解でも、ブラフマンの三要素=存在(サット)意識(チット)至福(アーナンダ)=「サッチダーナンダ」はあるわけさ。
じゃあ、あなたが、完全なる無を「認識していた」という解釈が誤りだと?じゃあ、「真我であるあなたがサッチダーナンダそのものと一体になっていた」というのが正しいと??
そうだね。
私が完全なる無を「認識していた」という解釈の箇所が誤りなことは認めよう。
そして、「真我である私はサッチダーナンダそのものと一体になっていた」というのが正しいというキミの指摘も認めよう。
それが、上の記事でいう、
あえて言語化すれば、「沈黙」・「なんも言えねー!!」・・・みたいな境地に達したんだわ(笑)
という境地だったのだと。
・・・うーん、つまり、真我であるあなたは、完全なる無を認識していたのではなくて、「存在・意識・至福」=サッチダーナンダ、そのものと一体になっていたのだと。
それが、あなたが、当時、あえて言語化すれば、「沈黙」・「なんも言えねー!!」みたいな境地だったと。
あなたは、そう言いたいのですね??
まあ、言ってみれば、キミの言う通りだと思う。
私は、完全なる無を認識していたのではなくて、真我である私が「存在・意識・至福」=サッチダーナンダ、そのものと一体になっていたのだと。
それが、私が、当時、あえて言語化すれば、「沈黙」・「なんも言えねー!!」みたいな境地だった、と言うことができる。
ふむ・・・。あなたの悟りは、ニセモノではない可能性が出てきたわけですよね?
まあ、正確に、シャンカラと全く同じ境地を体験したか?というと、よくわからないけれども。
私の悟りは、やっぱり、今から思えば、ホンモノの「汝それなり」の悟りだったと言うことができるのではないか?と思っている。
そうなると「完全なる無」というのも、おかしいのではないですか?
正確に言うと、おかしいのかもしれない。
しかし、具体的な対象や現象がないのだから、一見、完全なる無に見えることは確かだ。
しかし、私は、当時は、一見、完全なる無であることに、驚いてしまったけれども、よく考えれば、それは、無限の一体性とか、純粋な存在とか、至福とかを含むものだったと、今から思えば解釈することが可能なんだよな。
でも、言葉にはできない境地だから、言語化は難しいし、そもそも正確な言語化は不可能なのであって、言葉であーだこーだ言うのも、実は、オカシイのではないですか?
言葉で解釈すること自体がまちがいだと?
私のこの神秘的な体験は、たぶん、たとえば仏教的な悟りの文脈でも解釈可能だよね。
あとから、言葉によっていかようにも解釈可能だ。
でも、言葉で解釈する限り、それは間違いになってしまう。
ブログで記事にする以上、沈黙で伝えることができないから、あえて言葉にしている。
しかし、言葉で解釈する限り、やっぱり、それは間違いになってしまう。
私は、何も語らなかったほうが、本当は良かったのかもしれないね。
それは「非実在なるもの」の根底にありながら、それ自体は実在として在ります。存在するもの、それが実在です。それはあるがままに在り、存在や非存在などといった言葉や表現を超えているのです。
でもそれでは、ブログの運営上、問題があるのでは?
だから、しょうがなかった・・・、と割り切るしかないか(苦笑)
なんか、こういう議論は、私にとっては、「言葉遊び」みたいなものでね。
本質的な問題ではないような気もするんだよね。
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