みずのさん
読み返したい記事のファイリング
書道教室で、書くを伝える身として、いろんな角度から見つめるあしあと。
読書の記録、中でも長文の感想をここに残していきます。ひとこと感想は、Instagramにて。
子育てをテーマにした記事のまとめ。子どもたちとともに成長したいと願う、試行錯誤のあしあと。
|このnoteについて目にとめてくださりありがとうございます。このnoteでは「ことばを、たのしむ」をコンセプトとし、ひとりの時間に考えたことを書いています。 |いま、ここの、おもいこれまで、ずっと誰かの言葉に寄り添ってもらい生きてきました。とくに悩みの中にあるときは、言葉にふれることで心が自然と前にすすむ、それがどれほどありがたかったか。ある人から紡ぎ出された言葉が、ときにある人の人生を変えてしまうほどの力があるということ。この大げさなようでそうでもない体験をとおして、
その歳にしか表現できないものがある、とおもっている。 もうこれは立派なアートだ。 一番の魅力は、その時の、そのひとの、感覚がまっすぐに出てる点。だってそういうのって、後にも先にも表現できるものではないから。それに、そのひとでないと表せないものだから。その唯一無二を想うと尊くて愛しくて涙が出そうになるよ・・・ 成長するにつれて何かを得ていくけど、何かを失っていく気もする。時折、あの頃の自分だったらどう表すんだろうっておもうことがあるけど、もうそれは叶わない。叶わないんだ。
さくらももこさんの本を読んでいると、頼まれてもいないのに(笑)日常を大切にしたくなってくる。 という自分に気づき、ハッとした。 この派生、流れ、心地いいじゃーん。 たとえば、すごいって感じるものを見聞きしたり、それがいいやそうするべきと教わることで影響を受けることもある、けれどもそれよりもすーっという感覚(どういう?笑)で入ってくるし、動機づけされる気がするのだけど、どうなんだろう。 ・ ちびまる子ちゃんを読んでいると、涙がこぼれてくることがある。 もしかしたら、
大きな悩みがあると、なんだかもうダメなんじゃないかって思えるときがある。 あれこれ手を尽くしても、なかなか霧が晴れないことがある。 ちょっと楽になったと思ったらまた落ちて。一体いつになったらこの渦から解放されるんだと、途方に暮れたり。 苦しく、やるせなく、悲しく。 そして逃げたく、放棄したく、篭りたく。 ただ、不思議なのは、そうやってふつふつとした中にあるうちに、しんどさからふっと抜け、何とかなるような気がしてくること。 えっ、こんなに重い悩みだよ?って問いたくな
先日、息子の空手の大会がありました。 大きな大会だったので、会場も広く、人も多く、なかなかにプレッシャーのかかる状況、かつ出場経験も乏しいという条件下でしたが、結果は準優勝。周囲を驚かせたということがありました。 入賞はもちろん嬉しかったのですが、わたしが何よりも喜びを感じたのは、彼の人間性の成長でした。 * 息子はこれまで大会には出ない主義でした。 例外にも出場したのは、地元の小規模なもの1回のみ。それも1回戦敗退、ほとんど手も足も出ずでした。試合に出ないをずっと
父とはぶつかった。 原因の多くは、正しさの違いによるものだったと記憶している。 父は、自分の正しさを絶対的なもの、完璧なものとして強く強く通した。でもわたしには、そう思えないことも多くあった。 何度も分かり合うことを試みた。けれども、たくさんの事情がからみ、結局は従うほかないというのが結論だった。自己防衛から丸くおさめることを最優先するようになりながらも、心では抵抗ばかりしていた。ついていかなかったのだ。表で取り繕うほどに、裏では矛盾が生まれた。解消されることのない矛盾
「いまどき習字なんて。会社に行っても手で書くことなんてほとんどないのに。と言われたの」 このようなことを最近聞いた。 うん、この価値観もあるでしょうね。 そして、もちろん、あっていいとおもいます。 でも、わたしはそうはおもわないので、書の道を大切にしています。 たしかに文明の利器により、書く機会は減りました。だからといって、切り捨てるのは蛮勇ではないかと。それに、世の中から完全になくなることは、、、ないとおもうのですよ(笑) ためしに、身近なもので考えてみます。
先日、ひとつの記事がわたしを射抜いた。 夢を叶えるって、なんだ。 ひきたさんもばななさんも言う。 夢を叶えるとは、細かいことにひたすら追われているだけだ。コツコツやるしかない、と。 たしかに、そう言葉を発してきた活躍者は少なくない。 共感しつつ、ためしに書道を例に考えてみる。ひたすらに、ちまちまと微修正を繰り返すだけで一体どれほどの年月が経っただろう。教室では生徒さんにそれをやってもらっている。たしかにただそれに追われているだけだ。しかも、日常にうもれながら。 も
は じ ま り いま、わたし、また、変わるとき。 前兆はあって、数ヶ月前からフツフツ、モヤモヤに遭遇したり、無力感に苛まれたり...。つまり葛藤ってやつでしょうか。 せっかくの機会なので、この変身どきについて書き出してみます。 何と直面しているか 大きなくくりでいうと、無価値感と犠牲感。本当に "それ" なのか?とびみょうに疑いながらも、感覚をたよりに辿っていくとどうもそんな感じがする。 どちらかというと犠牲感の方が強いかも。 どんな感覚、状態か 虚しい、みじ
ある日のこと地下鉄のホームで乗り換えをしようと足早に歩いていると、列車の扉に指を挟まれた女性と遭遇。 どうやら駆け込み乗車をしようとして、指一本だけが間に合っちゃった模様。 大変!危ない!駅員さんは気づいているだろうか?!ダッシュする?! と、時間にして30秒ほどだっただろうか・・・いや、30秒もないかも。その女性とあわあわしていたら、指がポンと抜け、その後間もなく列車は発車し、ことなきを得た。 あー、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうによかったよ・・・(泣) しばら
心がザワつくときは 気の赴くまま 一心になにかへ向かう それが整う術のひとつ わたしにとっては 料理が その手段になり得るんだってことが 年月を経て ようやくわかってきた 心静かに、ただただ、手をうごかす 流れる音、色、感触、香りを 五感でとらえる その時間が、自分をじんわりと満たしてゆく 静かな幸せ でも、わたしが最も求めているのは 料理をすることよりも その向こうにある 自分の世界観ですべてを表現し 内側にある燻りを解放すること たぶ
手で書きたい、それはどんな時に訪れるだろう。 ここに一つの詩がある。 この透きとおるような表現に胸打たれ、手で書いてみたくなった。そして。 書きながら、儚くて切なくて清らかで思わず泣きそうになった。読むだけでなく、手を動かし文字を形取っていくことで言葉たちとの距離が縮まるような気がした。 わたしの場合、手で書きたいが訪れるのは、言葉を感じたいとき。そして、それらを丸ごと表現したいときもやってくる。 そう考えると、書くという行為は、文字に言葉に息を吹き込むとも言えるか
ある日のお昼時、ご飯でも食べようかと冷蔵庫の中をのぞいたら、冷凍のエビ焼売を発見。大好きなエビものを目の前にして閃く。 「 そうだ、今日はこれを、一人で、ぜんぶ、食べよう 」 ルンルンで蒸して、アツアツを食す。フワ〜と湯気立つ焼売たちを夢中で頬張るわたし。それも一人で、ぜんぶなので、たくさんある(笑)無心でホフホフしていたら、 『 あ〜、おいしい。なんて幸せなんだ 』こころの声がして、我に返る。 とっさに、「えっ、ただの冷凍の焼売だよ?」(失礼)と突っ込むと、 『
「カンパーイ!」 わが家では、特別な日には半日ほどかけて料理をし、みんなでテーブルを囲むことが恒例になりつつある。 当日までの流れ。 1.家族のスケジュールをおさえる 2.主役のリクエストを確認する 3.買い出しにいく 4.料理する 5.写真撮影をして記録に残す この中で決まっているのは、主役のリクエストに応え、あなただけのテーブルをつくるってこと。一番気を配っているのは子どもたちの公平性だけれども、誕生日、雛祭りやこどもの日などを仕分けると自ずと平らになるので、たぶ
先日、家事をしていたらふっと湧いた言葉。こんなときは、注意報発令。なにって、パンクの兆し。 この犠牲感、家事に限ったことではない。ほかでも起こる。 そう、周りがどうのではなく、わたしの課題。詰め込みが過ぎる、背負いが過ぎることで起こる事象であり、これまでも長らく向き合ってきたテーマだ。 * 昔から、自分の中の「愛情奉仕」エリアと「犠牲感」エリアの境界線絡みには苦労してきた。 普段、たいていは愛情奉仕の方でごきげんに生きている。そう生きたいと願っている。が、いろんなキ
[6 years ago. 眼差しのやさしさ破壊級] |母の日に母の日に、娘から一通の手紙をもらった。一生懸命さがにじみ出た心打たれる絵と文章。そして、そこには一生の宝物とも言えるこんな言葉が。 『 ママがこんなに大事に育ててくれたおかげで、こんなに大きくなりました。本当にありがとう。感謝しかないです。』 おかあさん、中学生にこんなこと言ってもらえるとは思ってもなかったよお・・・(涙) 手書きでしたためられたその文章は、まっすぐで、無邪気で、あたたかく。わたしが思うに