見出し画像

手で書きたくなるとき

手で書きたい、それはどんな時に訪れるだろう。



ここに一つの詩がある。

いまだれかが私に
花の名をささやいて行つた
私の耳に風がそれを告げた
追憶の日のやうに

立原道造 詩




この透きとおるような表現に胸打たれ、手で書いてみたくなった。そして。



書きながら、儚くて切なくて清らかで思わず泣きそうになった。読むだけでなく、手を動かし文字を形取っていくことで言葉たちとの距離が縮まるような気がした。

わたしの場合、手で書きたいが訪れるのは、言葉を感じたいとき。そして、それらを丸ごと表現したいときもやってくる。

そう考えると、書くという行為は、文字に言葉に息を吹き込むとも言えるかもしれない。誰かの何かが宿った瞬間から、確実にただの文字列ではなくなるのを何度も目撃してきた。メッセージ性はこうして高まっていく。そしてそこからは、何やらオーラのような、エネルギーのようなものが放たれている。唯一無二の。


*


最近は、手で書いたものに音楽を合わせるのが楽しい。インスタで気の赴くまま作ってる。この作品にRADWIMPSのなんでもないや Piano Ver. を合わせてみたら、そこではじめて立ち上がる世界があって刺激を受けた。(2分あたりからが最高に詩と重なって泣けてくる)



もしかしたら、他のものとMIXされることで違った光を放ち、また違った誰かに届くかもしれない。イマドキとのコラボレーションで再燃するのは、多くのことで起こってきた。そうやって見せ方を変えながら、より親しめるカタチを探したい。

いつの時代も共通しているのは、心にあるものを表現できる喜びだと思う。できればそこに自分なりの美学が存在していてほしいという願いを込めて、人は腕を磨くのかもしれない。表現する、たった一瞬のために。



立原道造は、昭和初期に活躍した詩人であり建築家。「たった24年しか生きなかった風のような詩人」とも呼ばれている。


素敵な記事を見つけた。建築家としての足あと。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?