どちらが正しいかを越える
父とはぶつかった。
原因の多くは、正しさの違いによるものだったと記憶している。
父は、自分の正しさを絶対的なもの、完璧なものとして強く強く通した。でもわたしには、そう思えないことも多くあった。
何度も分かり合うことを試みた。けれども、たくさんの事情がからみ、結局は従うほかないというのが結論だった。自己防衛から丸くおさめることを最優先するようになりながらも、心では抵抗ばかりしていた。ついていかなかったのだ。表で取り繕うほどに、裏では矛盾が生まれた。解消されることのない矛盾は不満となり、やがては理不尽さに変わった。悪循環と分かりながら、やり過ごすだけで精一杯だった。父の正しさのかごに入れられた鳥のように感じた。
「それは、お父さんの正しさであって、わたしはちがう。わかってよ!」「正しさってなに?」数え切れないほど心で叫んだ。
変わらないと感じる相手に、現状に、無力感をおぼえた。
*
そんな父が、このごろ重ねて体調を崩した。その影響もあり、めっきり小さく見えるようになった。
先日、父との会話の中で不穏な空気になったことがあった。すごく久しぶりのことだった。
わたしは、父に向けて、強く、言葉を放った。納得できないことに対し、勇気をふりしぼって「それは違う」とぶつけたのだ。
けれども、父にあのころの勢いはなかった。それどころか「お父さんは変わったんだって」と切なそうにぼやいた。口をつぐんだ父の姿が、頭に残った。
その夜、一つだけ後悔した。それは、父の気持ちを受け止められなかったこと。弱った父に優しさを向けられなかった自分がどうしようもなくイヤだった。ちいさく、弱く、醜くうつった。そして、だんだんと自分の正しさを押したに過ぎないような気がしてきた。父のそれを批判しながらも、同じことをしたのではないかと思うと、受け入れがたい感覚をおぼえた。
*
誰もが自分の思う正しさをもっている。
そう、あくまでもその人が思うものであって。それを人は、無意識に絶対的なもの、完全なものとして扱いがちだけど、そうでもないということを父との関係をとおして念入りに教わった。となりの人と同じようで違っているとか、答えが一つのようでバリエーションがあるとか、選んでいないようで選んだものであるとか。ベストに思えて、案外そうでもなかったり。そういった、いわゆる相対的なものを、絶対的かのように通そうとしたらどうなるか。不完全なものを、完全かのように通そうとしたらどうなるか。
正しいと思うことを言ってはいけないという極端な話ではなく。争いに発展する、他者を傷つけるほどみずからの正義に固執する、過信することなかれ、と思うのだ。少なくとも、振りかざしたときに、武器になる可能性があるということを知っておく必要はあると。
*
じゃあ、とらわれないためにはどうしたら。
たとえば。正しさ以外の物差しではかってみるとか?
わたしは、楽しさや互いにハッピーか、結論は合理的か発展的か、関係性を育むかなどの物差しを大切にしてる気がする。
または、相手の背景を知る、考えてみるとか?
主観で判断していることも多く、相手の事情を知るだけで見る目が180度変わることもある。
ほかにも伝え方の工夫とか。できることはたくさんあるんだなー。
また、このプロセスを経るからこそ、わかり合うという相互の関係性が生まれ、育まれていくような。そうやって正しさの観念による壁を越え、他者との間に橋をかけていくことこそが、平和をつくると思うのだけど、どうだろう。なんにしても手間暇かかるものだと思うのよ。
すごーく難しいけれども、それぞれが身近なところに平和をつくり出せれば、それがつながり、やがては社会という大きな輪になってゆくと。
*
ずっと父にわかってもらいたかった。いや実際は、わからせたかったというほどに鋭利になっていた。その根底では、自分の正しさを証明したかったのかもしれないし、わたしの正しさのかごに、父を入れたかったのかもしれない。いずれにしても、みずから苦しみながらも、自分はしないと決めながらも、知らず知らずのうちに同じことを相手にしていたに過ぎないのだ。
かごの中の鳥は果たして。
でも、いいや。そういう時期も味わい、いつの間にか争いの土俵から下りられるようにもなっていたのだから。しかも、相手に「わからせる」以外の方法で。
わたしは、ちゃんとかごから飛び立っていたのだ。
この話題には、この4冊。
「すべては自分から始まり、自分から終わる」
あらゆる問題は、自然に解決される。極めてシンプルで誰にでもできる術。矛盾なく包括してる点がすばらしく、腑に落ちる。わたしの人生を変えたといってもいいほどの1冊。
どちらが正しいかの先へいくなら、このコミュニケーション方法がいいなと思い、実践しながら学び中。NVCでは、ジャッジのまなざしをがらりと変え、「自分の内面で何が息づいているか」に意識を向け、自分や相手とつながりをつくることができる視点を提供。
子どもの頃から正しさに悩んできたわたしが救われたのは、小林正観さんの本と出会ってから。長らく辻褄が合わなかったことが合った瞬間は、まさに正観さんによりもたらされた。「ただしい人から、たのしい人へ」もおすすめ。
「僕は、そうは、思わない」のフレーズにまつわる繊細な描写が、あの頃の自分と重なり、甘酸っぱい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?