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じゃあ、手で書くはいらないか

「いまどき習字なんて。会社に行っても手で書くことなんてほとんどないのに。と言われたの」

このようなことを最近聞いた。


うん、この価値観もあるでしょうね。

そして、もちろん、あっていいとおもいます。

でも、わたしはそうはおもわないので、書の道を大切にしています。

たしかに文明の利器により、書く機会は減りました。だからといって、切り捨てるのは蛮勇ではないかと。それに、世の中から完全になくなることは、、、ないとおもうのですよ(笑)


ためしに、身近なもので考えてみます。

たとえば、パソコンでつくられた手紙と、手で書かれた手紙。

受け取ったとき、同じ印象を受けるでしょうか。同じストーリーを辿るでしょうか。

(手紙がポストに入っている、開ける・・・とシュミレーション・・・)

今度は、反対に想いを伝えたいとき。どちらも同じと考えますか。気持ちをちゃんと伝えたい、誠意を表したいなど、表現という観点からの目的が加わるとどうでしょうか。

わたしならできるだけ手で書く方法を選びます。お世話になったとき、ご挨拶するとき、一筆箋にしたため添えるということが、わたしにとっては想いや誠意を込めることにつながっていますし、その方が伝わるという実感もあります。

それは、手書き文字には、書き手の人となりや心が宿ると感じるから。上手い下手を判定するとかいう話ではなく。


ありがとう

ごめんなさい

またね



言葉のむこうに浮かぶ相手の姿やその温もりは、手で書くことでよりありありと伝わってくるとおもうのです。

結論として、この「ちがい」がある限り、それぞれは在ってゆくのではないでしょうか。

ふだんから感じてますが、その人が書いたっていうだけで十分ステキです。ただ、何事も磨くというプロセスを経た方がよりよいものとなり、相手を魅了するのは確かです。なので、じぶんの文字をどうしたいか、だとおもいます。人には興味関心や優先順位があるのですから。


と、ほんのちょっと考えてみただけでも、いろんなことが浮かびます。いろんな角度から見つめることで世界は広がる気がします。

わたしが、習字なんてという声を聞いたときに一番おもったこと。こういう、これまでの当たり前が変わりつつある現実を前に、変わらないものをどう伝承していくのか。そして、今という時代にフィットさせるために何を変える必要があるのか。まがりなりにも、書の道を伝える者として心得ておかなければと。


*


おまけ。逆の発想もできます。手で書く機会が失われ、人が書かなくなるほどに、書けることの価値は高まるかも。これは、書くにかぎったことではなく、人の手でつくられるものへの価値という意味で。

いまだに有名人の文字については、話題になります。インスタでも文字アカウントは人気です。わたしの周りでも、手書きのものに反応があること、多いです。それほどまでに人は、手書き文字に何かを感じ、関心を寄せているということではないでしょうか。ひいき目かもしれませんけどね(笑)

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