夢を叶えるって、なんだ
先日、ひとつの記事がわたしを射抜いた。
夢を叶えるって、なんだ。
ひきたさんもばななさんも言う。
夢を叶えるとは、細かいことにひたすら追われているだけだ。コツコツやるしかない、と。
たしかに、そう言葉を発してきた活躍者は少なくない。
共感しつつ、ためしに書道を例に考えてみる。ひたすらに、ちまちまと微修正を繰り返すだけで一体どれほどの年月が経っただろう。教室では生徒さんにそれをやってもらっている。たしかにただそれに追われているだけだ。しかも、日常にうもれながら。
もし、最初に書いたことが共通する成功のセオリーだとしたら、このミリ単位の修正と向き合う書道で培われる力は、人生という舞台において、いずれどれほど大きな意味を成すことか。一見地味な行為が、壮大に見えてくる。あくまでも書道はひとつの例。
でも、なかなかそこまでは理解しがたい。たとえ瞬間的に価値を実感できたとしても続かない。だからつい旨みを求めてしまう。が、眼差しは濁る。うっかり意味を問うてしまいたくなる。が、捉われすぎると動けなくなる。こと子どもにおいては価値を説いたところで、馬の耳に念仏になってしまう。 だからこそ、楽しくできる方法が必要なのだ。それを探し続けたい。
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誰かがコツコツ積み上げている姿を見ると気後れすることも多い。同時に、心が震え声が響く。
えぐいほど目の前のことに没頭したい。えぐいほどに、と。
それは、叶えたいことがあるからやるというよりは、これでもかってほどやる、その生き様に惹かれている気がする。何でもいいのだ、とことんやれるなら。いま目の前にあるもので。たぶんまっすぐにそう思っている。ということは、わたしは没頭するを夢見ているのではないか。そういえば、これは子どもの頃に考えたことと同じような。目の前にある存在をだいじに見つめるスタイルも、記憶を辿ると5歳頃から変わっていない気がして。はにかんだ。
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「世間はだませない。
細かいものをひたすら追いかけたかを峻別するのが世の中の人だ。」
ひたむきに本質を追いかけるのだ。
余談。ひとが放ったことばがすきだ。寝食忘れうもれたい、おぼれたいとまで思ってしまうことさえある。ちょっと変態チックだけれども、すきなんだよー!これがわたしなんだよー!って世界に向けて叫びたくなった図書館からの帰り道(の写真)。
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