愛情奉仕の道は、一日にして成らず
先日、家事をしていたらふっと湧いた言葉。こんなときは、注意報発令。なにって、パンクの兆し。
この犠牲感、家事に限ったことではない。ほかでも起こる。
そう、周りがどうのではなく、わたしの課題。詰め込みが過ぎる、背負いが過ぎることで起こる事象であり、これまでも長らく向き合ってきたテーマだ。
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昔から、自分の中の「愛情奉仕」エリアと「犠牲感」エリアの境界線絡みには苦労してきた。
普段、たいていは愛情奉仕の方でごきげんに生きている。そう生きたいと願っている。が、いろんなキッカケで犠牲感に豹変(笑)していることがある。
最初は小さな点がかするくらいかもしれない。でも、それらが積もると怒りや虚しさが湧き、やがて情動に至る。満を持して感情がパンっと放たれてしまう。ルーティンとして捉えられている状態(愛情奉仕)から、どうしてわたしばかり...(犠牲感)になり、もう!あれもこれもある!〇×△・・・(情動)みたいな。それは、たとえば掃除機をかけるなどの身近なことでも起こる。
それぞれのエリアには、うっすらと境界線のようなものがあるように感じている。そして、事が起こるのは、知らず知らずのうちによっこらっしょと跨いで犠牲感が過ぎるとき。けっこう圧迫してないと自覚できないことが厄介。ゆえに、パンクしてようやく気づくことも。
周りからは、頑張りすぎとか、そこまでしなくてもって声が掛かることがある。ごもっとも。程度が分かればもう少し上手く立ち回れるのにと、自分の不器用さを嘆く。
気づきにくい理由としては、2つが思い浮かぶ。
1つ目は、境界線の位置が変わること。成長とともに許容範囲そのものに変化があり、掴みづらい感覚をおぼえる。
2つ目は、わたしがチャレンジャーだから(笑)たぶん、何事も保身よりチャレンジの選択をどこか(魂)では求めていて、それが自分に課し過ぎることへと繋がりやすいのでは。この件で言えば、どこまで愛情奉仕でできるか、常に挑戦しちゃうのだと思う。(しちゃうがピッタリ)。成長を目的にパンク寸前を攻めてしまうのだろう。ただそれが、無意識なので自覚しづらく、ついバランスを極端に欠いてしまう。それって自己信頼なのか、リスクを読むのが下手なのか何だろう(笑)いずれにしてもそこにあまり恐れがないのは分かる。何とかなると思ってるんだろうな。引き受ける覚悟ができていると見れば、プラスに感じる。ただ過信にならないように気をつけたい。
対策をしてないわけではなく。これまで試みてきたのが、小出しにする、意識的に自分を優先する等。ただ習慣、クセって強いので簡単ではない、ね。
犠牲感になったときに本望ではないことは、その事柄が「嫌い」とか「やりたくない」というメッセージで周りに伝わってしまうこと。切ない。ちがうの、ただ一杯一杯なだけなの(泣)
こうして色々とテーブルにあげた上で、次は抱え込むワケに焦点を当て深堀ると、また別のものが見えそう。ほかには「わたしのスタンダード」の中身を見直すのもきっと有効だ。つまりトラブルそのものから、根本的な原因へと視点を移す必要があると感じた。
この道、おそらく気づいてから20年近く歩いてる。自分との折り合い、まさに境界線を模索しながら。一日にして成らず。
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この気持ち(わたしばっかり!)が強く発生したあたりで、生まれて初めてのギックリ背中になった。一日中横になってることしかできない中で、「強制終了」という言葉が脳裏に浮かぶ。
どうやらからだも教えてくれている(笑)
だいじだいじ、からだの声を聞くってこと。
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