わたし、変身どき
は じ ま り
いま、わたし、また、変わるとき。
前兆はあって、数ヶ月前からフツフツ、モヤモヤに遭遇したり、無力感に苛まれたり...。つまり葛藤ってやつでしょうか。
せっかくの機会なので、この変身どきについて書き出してみます。
何と直面しているか
大きなくくりでいうと、無価値感と犠牲感。本当に "それ" なのか?とびみょうに疑いながらも、感覚をたよりに辿っていくとどうもそんな感じがする。
どちらかというと犠牲感の方が強いかも。
どんな感覚、状態か
虚しい、みじめ、ちっぽけ、不足感、無力感・・・など。怒りもある。なんともまあ不快。じぶんという存在にまつわるネガティブな感情がぐるぐるして、しばらく抜けられない。
何かをキッカケとして雪崩がおき、これらの感情が放たれ、揺さぶられる。
その揺さぶりの中で、今回はじめて発見したことがある。それは自己価値を感じたい、存在意義を見出したいために取るわたしの行動パターンがあるらしいってこと。おもに以下2つ。
じぶんを置き去りにして、相手のよき理解者になろうとする
実用的でよくはたらく人間になることで役に立つことを証明しようとする
ある本にハッとさせられ、そこからじぶんに問うことで気づいた、気づけた。
問題と引き起こすこと、その原因
問題は、「自己価値を感じたい、存在意義を見出したい」という動機があるがゆえに、じぶんを見失うこと。たしかに、性質上、やり過ぎる傾向にはある。でも、理解者になったり、働きものになったりは一見問題なんてないし、何なら成長だってしちゃうわけで。けれども、いい人やできる人になろうとして犠牲感にまで至るやり方は見直さなくてはならないと。
引き起こすことは、じぶんの本当の気持ちを感じにくくしたり、我慢し切れないのに我慢で解決しようしたりすること。そうやって、本心とは遠ざかった現実を自らつくり、ギャップに苦しむ。そう、つまりじぶん自身とも他者とも錯誤が起こり、それが悩みのタネになるのではないか。もしこれが、結末まで消化できるならば一つのあり方といえるかもしれない。でも、不安や不満、犠牲感につながるならば未消化であり、よりよい方法を探すのが賢明。
無意識下というのは、ブレーキもキャパを察知する機能も鈍いのか、これまで何度も対峙してきた課題。
では、その原因はなんだろう。
・・・
たぶん・・・わたしがわたしを認めていないこと(だって書きながら気づいた)。そうか・・・じぶんで認めていないから、ブレーキがかからなくなるほど外側に取りに走ってしまうのかもしれない…。
そもそもの話、補填行為をし、瞬間的に満たされたような気になっても、本当の意味では埋まることなどないのだ。なぜならば、本来、他者からの評価で埋めてもらうものではないから。
しかも、自己価値を感じる目的でやったことは、目の前の人やことへの眼差しを曇らせる。つまり純粋なあり方で交われておらず、結果も相応のものしか導き出せない。どうしてもその分だけ薄っぺらくなってしまうよ…。よーく考えると深層心理では利己に偏っているから、きっとより純度高いものには敵わないであろう。
どうアプローチするか
2つあるとおもう。
1つ目は、外側に対してで、「また一歩飾らないわたしになり、交わる」。これをする必要がある。自己価値を感じたいからといって、犠牲感に至るほどいい人やできる人になろうとしない。そのためには、等身大とか、本心からどう交わっていくか。ここに挑戦することが、この問題へのアプローチではないか。それは、たとえ摩擦が起ころうとも本音を伝え、結末を受け入れること。真のつながりへの努力をすること。それらをとおして育まれる誠実、愛、協調をつくるために必要なスキルを身につけ磨くこと。このとき、離れる崩れる壊れるが起こった場合は、その流れに乗る。(こう書きながら、すこし前に受けた鑑定に出ていた結果"今後は、摩擦を恐れず、その先にある協調性を目指すべきとき"を思い出した)
2つ目は、内側に対してで、じぶんを抱きしめること。そういえば、この時期すごく湧いてた、この想いは。抱きしめてほしかったんだねといったら涙がこぼれた。
たぶん、この道ずっと歩いてる。ステージが変わるたびに課題が変わり、手放すものが変わりだけど、道は同じだ。
>>これらの記事、つながってる。
この文中に「つまりトラブルそのものから、根本的な原因へと視点を移す必要があると感じた。」と綴ったが、まさに今、根本的な原因に向き合うときが訪れている模様。
結 び
繰り返すが、自己価値を感じたいからといって犠牲感に至るほどいい人やできる人になろうとしない。じぶんを抱きしめる。この2つに挑戦していこうとおもう。
こうして感じ、考え、言語化し、理解し、、、で自覚的になるからこそ、次の行動につながっていく。これが意識下に落とし込むではないか。
既存の方法で成長できた、上手くいった時期もあるゆえ、本能的にいえばその成功パターンをリピートしているのだろう。でも、たとえどんなに優れたものでも、いずれ適応できない時期はやってくるものだ。だからこそ、成功体験として強く握りしめてしまえば、頭打ちにあう。それでは変容を起こすことができないし、仮に起こせたとて、またすぐ壁にぶち当たり消耗するか消滅するか。
これは、裏を返せば他のパターンを獲得するチャンス。さあ。
それにしても勇気がいるなー。本当はやりたくない。でも、やるしかない(笑)
お ま け
さて、もう一歩飾らないじぶんになるを目指すわけだが、対極にある「飾る」についての考えを、ここにあえて記しておきたい。
しばしば「飾る=人によく見られようとする」と捉え、昨今飾らない方のあり方が注目されている。わたしも、その考えを取り入れたい一人ではあるが、その際押さえた方がいいと感じるポイントがある。それは両極端で捉えないってこと。
わたしたちはつながりの中で生きている。その中で、他者というのは決して切り離すことのできない存在だ。その事実から見れば、たとえば、人からどう思われてもカンケーないとまでの極端な捉え方は、有用なケースを除けば乱暴に感じる。背景があるとしても、もったいないとおもってしまう。本来、人目というものは、ありがたいものでもある。それがあるからこそじぶんを律することができるし、大いに磨かれるのだから。多くの人は知らず知らずのうちにその恩恵を受けているはずだ。であれば、そのメリットを活かしつつ、変えるべきところを変化させる方が賢明だとおもうが、いかに。
ただ、人目を気にするあまり、じぶん自身を含め大切な存在を無視したり失えてしまうのは違う。抱きしめることができないまま翻弄されるならば、その比重を見直す必要はあるだろう。そのときに、その人にとってどちらを意識した方が上手く回るかっていうだけの話であって。もしジャッジをしつづけてしまえば、引き出しが増えることはないだろう。そう考えると、目の前のことをどの角度から捉えるかは、極めて重要なことではないか。
どんなことも、今ここを知り、受け止め、そしてどう歩むか。そのために内なるものに気づいていくのだと。この大いなる存在に。
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