【8000字無料】『君たち』小説版とジブリ映画版の比較——『現代思想』の『君たちはどう生きるか』特集を読む(3)
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雑誌『現代思想』の『君たちはどう生きるか』特集について、紹介しつつ、特集についての感想&映画についての感想を喋ったダイアログです。
0〜5の全6回の記事に分けてお届けします。
(今回は第3回! この記事だけでも読めます!)
第0回『現代思想』とは?
第1回 自己模倣する宮崎駿
第2回 鳥と飛行機
第3回 『君たち』小説版とジブリ映画版の比較(この記事です)
第4回 『さみしい夜にはペンを持て』を『君たち』と読み比べると現代のことがわかる!?
第5回 保守的な思想の終わり
第1回・第2回はこちら
話している人
はじめに
八角 さてここまでは、『現代思想』の『君たち』特集は、解説本ではなく、作家論や特定の要素を外から分析するような議論が多いという話などをしてきたね。
しぶ そうでした。
八角 作品解釈で言うと、「自己言及」の話が『君たち』ならではの議論で面白かったね。
しぶ そうだね。『君たち』は、単に「宮崎駿が過去作のオマージュをしました」という作品なのではなくて〈宮崎駿が過去作のオマージュをする〉ということ自体をテーマにした作品なのだという話。
八角 そうそう、面白かったね。オマージュ自体を作品にしてるって気づかなかった。
小説版とジブリ映画版の『君たち』の比較
①共通する「目まい」
しぶ さてここからは、坂口周さんの「倫理を問いかけるアニメーション」という論考を取り上げようと思う。小説版の『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)と比較することでジブリ映画版『君たち』について考えている論考です。
八角 小説版と比較するのはいいね。
しぶ そうそう、小説と比較することで見えてくる部分があるはずだよね。まずは坂口さんの論考について見た後で、一般化できる論点があればさらに深めようと思う。
八角 いいと思うよ。ちなみに、私は基本的に「小説版からはタイトルを借りてきただけだ」というスタンスだから、あまり意識して考えてない。
しぶ まあそういう立場もありますね。
八角 ではどうぞ。坂口さんの論考では、どういう話がされているの?
しぶ 坂口さんの論考では、まず、小説『君たちはどう生きるか』と、ジブリ映画『君たちはどう生きるか』の重なる点は、「目まい」にあるとされる。
八角 「目まい」ってあったっけ?
しぶ ジブリ映画版に「目まい」という具体的な描写があるわけではない。概念装置のようなものだと思って欲しい。坂口さんの論考によれば、小説とジブリ映画で、「目まい」の描かれ方が違うそうです。小説では「目まい」は具体的に登場するので、そのシーンを確認したい。ビルの上で……。
八角 前に聞いた話では、「主人公コペル君が、ビルの上から、大勢の人が歩いているのを見て、自分以外にも人間はたくさんいるのだ、自分は中心ではなく社会に位置づけられているのだと気づいた」という話だったよね。
しぶ そうです。坂口さんも引用している箇所だけど、重要なので小説版『君たち』から引用します。
しぶ コペル君以外にもコペル君がいる。要するに、他人がいる。そしてコペル君は、自分が世界の中心ではないとわかって、「目まい」を起こした。つまり、他人がいるということ、言い換えると、自分の外部を認識することによって、「目まい」は起きる。
八角 ふーん、なるほど。
②小説が読者に目まいを起こす!?
しぶ 坂口さんは、この「目まい」が、「近代文学者も常に関心を寄せてきた」もので(96頁)、それどころか「近代に誕生した小説はこの〈関係の哲学〉に気づかせる装置だった」(97頁)という。
八角 よくわかんない、「〈関係の哲学〉」って何?
しぶ 坂口さんは96-97頁で、マルクスの生産関係の話にも触れつつ、説明している。とりあえず今はぼくの言い方で説明すると、自分が世界の中心ではないとわかる、自分の外部を認識することが、「〈関係の哲学〉」の説明にあたると思う。
八角 なるほどー。
しぶ 外部を認識すると、言い換えれば「関係の哲学」に気づくと、「目まい」を起こす。
八角 外部があるっていう関係の哲学に気づくと、目まいを起こすんだ。レトリックみたい。近代小説が装置っていうのは?
しぶ 近代小説というのは、読者に「目まい」を起こさせるような構造を持っているっていうこと。
八角 ん? でも「目まい」を起こしたのってコペル君だよね? 読者じゃないよね?
しぶ そうそう、それが面白いところで、近代小説が読書に起こす現象が、小説版『君たち』では作中に登場している。
八角 あーつまりメタ構造になっているってこと?
しぶ そう。坂口さんの論考を引用します。
しぶ 上の引用がまず言っているのは、吉野は〈近代小説が「君たちはどう生きるか」という倫理的な問いそのものを構造化している〉と考えたということです。
八角 「吉野は『近代小説が倫理的な問いを構造化している』と考えた」ってどういうこと?
しぶ これは、ちょっとわかりにくいので、2つに分解して考えたいと思います。
(A)近代小説は読者に「目まい」を起こさせる。近代小説は、実際には1人の「作者」や「語り手」によって作られた世界だけれど、まるでその外にもっと広い世界があるかのように感じさせる。だから近代小説は、自分の外部を意識させ、読者に「目まい」を起こさせる。
(B)吉野は、このような「目まい」(自分の外部の認識)抜きには、「君たちはどう生きるか」という問いを考えることはできない、と想定していた。 実際、小説『君たち』では、コペル君は自分が世界の中心ではなく社会の関係の中に位置づけられることを知って成長していく。つまり、この小説内では「目まい」(自分の外部の認識)は倫理的な事柄として捉えられている。
(A)と(B)を合わせると、近代小説は「目まい」(自分の外部の認識)を構造化しており、吉野はその「目まい」が倫理的な問いに関わるものだと捉えていた、ということ。だから吉野は〈近代小説が倫理的な問いを構造化している〉と考えた、と言える。
③アニメの「目まい」
しぶ 以上のことから、小説版『君たち』は、作中にその「目まい」が登場すると同時に、近代小説の構造を利用して「目まい」を表現しているし、それを倫理的だと考えている、とわかる。つまり、小説ならではの方法で、「目まい」を表現している。
八角 なるほど複雑だね。そうだとすると、アニメ版だと、どうなるんだろうね。
しぶ 同じ「目まい」が描かれていると言っても、今度は小説ではないわけだから、まさにそこが問題になる。実際、坂口さんの論考も、次のように続いている。
しぶ 「アニメ映画においてアニメ的特性を生かして同じような問いかけを表現することが可能なのか」に対する坂口さん自身の答えは、アニメ特有の仕方で「目まい」を表現している……というものなんだけど。映画の内容に即しての、かなり具体的なものなので、ここで要約するよりも実際に読んでもらったほうが面白いと思います。
八角 確かに。ここまでもかなり内容が複雑なので、読んでもらった方がいいかもね。
④問題の一般化:2つの論点
しぶ さて、坂口さんの議論に啓発されて、ちょっと考えてみたいことがあるんだけど、いいですか。つまり、この問題をぼくたちなりに一般化して考えてみたい。
八角 ここからは坂口さんの論考から離れて考えよう、ということね。
しぶ そうです。この坂口さんの論考から、2つの論点が引き出せるように思うんです。(1)時代への応答、それから(2)アニメという媒体の特性。ジブリ映画版『君たち』を考えるときに、小説版を足がかりとするなら、この2点が問題にできるんじゃないかと思った。
(1)時代への応答
八角 1つ目から順番に聞きましょう。まず時代への応答というのは、坂口さんの議論で言うとどの部分に対応する?
しぶ まずコペル君の「目まい」が、「近代文学者も常に関心を寄せてきた」という部分。つまり、コペル君の「目まい」に相当するものが、小説版『君たち』に限らず、近代の文学で扱われているということ。
八角 「自己に対して最も謙虚になる瞬間」、「「自我」の強調やエゴイズムが近代の弊害として反省に付され始めた時期の流行」という表現があるね(96頁)。つまり「目まい」が、時代状況に関係しているから、「時代への応答」という論点として理解しよう、ということですか?
しぶ そう。近代の「自己」という問題への答えとして「目まい」は考えられる。まずは坂口さんの論考に沿って一度確認します。自分は世界の1分子にすぎないんだ、というコペル君の気づき(目まい)が、時代の流れに埋め込んで理解される。この論考を読んだとき、この話は非常に腑に落ちたので、取り上げたいと思った。
八角 どう腑に落ちたの?
しぶ というのは、小説版『君たち』って過剰なまでに社会の関係を強調するんだよね。「あなたは自分が世界の中心だと思ってるかもしれないけど、実は世の中には大勢の人がいて、その生産関係の中にあなたもまた組み込まれてるんだよ、そのことを見た方がいいよ」って話で、現代から考えるとむしろ生きづらそうに感じる。だけど、極端に「自分だけがある」状態に対するカウンターとしてなら理解できる。
八角 なるほど、そうだね。確かに、例えば明治期の小説って、周りのみんなが死んじゃっていく話だよね。本人も死ぬけど。あれって自分しかいないから死ぬんだよね。
しぶ そうそう。伝統から切り離されて突然、近代化することになった日本全体の不安と、重ねて説明されますね。
八角 そのあと『君たち』小説版のころまで時代が進むと「自分しかないから死んでしまう」だと困るので、「社会あるじゃん! 君は社会の一部なんだからさ!」ってカウンターなんだね、知らなかった。
しぶ そうそう。「自己の強調」が強くある前提での、批判としての、逆の面の強調なんだよね。『君たちはどう生きるか』の小説は1937年(昭和12年)刊行らしいので、例えば夏目漱石が小説を書いていたような時代からまだ20年くらいしか経っていない。
八角 現代だと、どうなるんだろうね。
しぶ これねえ、一言でまとめるのは難しいけど。ある意味では、当然その頃よりもっともっと近代化しているわけだから、現代も「自己が強すぎる!」と言えるのかもしれない。だけど当時のように「社会関係で相対化だ!」が適切なカウンターとして受け取られる時代ではないよね。これは坂口さんの議論からは離れたぼくの考えです。
八角 だからジブリ映画版『君たち』は、どのような仕方で現代という時代に応答するか、という論点がある、ということだね。
しぶ そう。それが1つ目の「時代への応答」という論点。
(2)アニメという媒体の特性
八角 2つ目はなんだっけ。
しぶ アニメという媒体の特性。坂口さんの論考では、小説版『君たち』は、近代小説の構造を利用して「目まい」を表現している、と言われていた。じゃあジブリ版『君たち』はアニメの特性を使っているの? ということですね。
八角 そうだった。
しぶ さっきも言ったけど、坂口さん自身の答えは、論考を読んでいただくとして……、ここでは、別の道を探りたい。まず、一般的に考え直すと、「人間の内面を描く」のは、小説というメディアの特性なわけだよね。ルソーの時代からそうであるように。
八角 そうだね。
しぶ 例えば映像だったら、起きている出来事をもっと客観的に描写できる。だけど、小説は、人間の内面からスタートする。小説版『君たち』の「内面から拡張して外部へ」という物語の展開は、小説という形式と合っているんだよね。小説は、まず自己から始まるのが自然だし、その上でさらに自己の外部の世界があると思わせるような特性を持っているから。
八角 内面から拡張して外部へ?
しぶ 前にも言ったように、小説版『君たち』は「自己を重視」する前提からスタートして「でも実はその外部があるんだ!」と展開する。これが「目まい」の話だったね。「内面から拡張して外部へ」というのは、こういう内実。
八角 なるほどわかった。一方、ジブリの『君たち』はアニメだから、全く同じことはできない、ということね。
しぶ そう。別の方法で何をどう描いているか、ということが、探るべき問題になる。
⑤「内面から拡張して外部へ」ではない方法
しぶ ということで、ジブリの『君たち』について(小説版を足がかりとして)考えるにあたっての重要な2つの論点が出てくる。(1)時代への応答、それから(2)アニメという媒体の特性。
八角 しかも、その2つの論点は関係しあっているよね?
しぶ そう思う。小説版は、小説という媒体の特性を活かして、時代へ応答(自己強調へのカウンター)していた。そういう話を踏まえると、宮崎駿は、アニメという媒体で、どのような時代感覚を描いたのか……。
八角 ジブリ映画版『君たち』が現代の感覚に本当に合っているのかは、色々思うところあるけど、それは後で議論したい(→(5)参照)。とりあえず、小説との比較という範囲ではどうですか。
しぶ 現代は「自己が過剰だから社会関係を強調しよう」がポジティブに受けとられるような時代ではない、と思うんだけど、どうだろうか。
八角 そう思います。それはアニメという形式とはどう関係するのかね?
しぶ ジブリ版『君たち』はアニメという形式を持っているわけだけど、この形式は小説と比べてどう違うか、を考えないといけない。映像で描く場合、必ずしも自己というか、内面からは出発しないよね。例えば人を描くときに、絵としては外側から描くしかない。内面を描くときには、特殊な表現方法を使わなくてはいけない。
八角 あー、わかりやすい例はありますか。
しぶ 話を簡略化した例としては、一人称小説を映像化したときに独白が減って印象が変わるなあ、と思う人は多いと思う。
八角 確かに。
しぶ 要するに、アニメは内面からスタートする媒体ではない。するとどうなるか。小説のように外部の気づきとしての「目まい」を描こうと思っても、アニメでは「内面から拡張して外部へ」という描き方はできない。
八角 なるほどね。
しぶ というわけで、2つの論点に沿って整理すると、ジブリ映画版は……
(1)時代が違う:現代は「自己が過剰だから社会関係を強調しよう」がポジティブに受けとられるような時代ではない
(2)媒体が違う:アニメは内面からスタートする媒体ではない
八角 そして加えて、小説版と同じように、この2つの論点が関係するってことね。
しぶ そうです。この2つの論点が関係しているので、ジブリ映画版は、「目まい」を描くにあたって、昔に書かれた小説版のような単純な「内面から拡張して外部へ」という描き方をしていない、と思う。
八角 さっきから「ジブリ映画版は(小説とちがって)こうではない」という仕方でしか説明されてないけど、「ジブリ映画版はこうです」という仕方での説明は何かある?
しぶ 残念ながらクリアな説明は思いつかないです。アニメという媒体を活かしながら、内容的にも「もっと自由で変な世界が描かれている」というのがぼくの考えなんだけど。
八角 そうなると、何を主張することになるの?
しぶ 色々あるけど、他の個別的な話をしていく中で話したほうがいいと思う。
八角 じゃあ、先に進もう。
しぶ それから、現代は(小説版の時代と比べて)どんな思想が受容される時代なのか、を考える好材料があるので、後で話しますね。
人間分子から動物分子へ
しぶ さて、小説版との比較をしている論考としてもう1つ言及しておきたいのが、難波阿丹さんの論考。
八角 「意識的な幻想」というタイトル。「幻想」にルビで「ファンタスム」。
しぶ 難波さんは、小説版『君たち』で人間について描かれていた内容が、ジブリ版『君たち』では動物に拡張されている、と論じている。
八角 人間から動物に拡張? 何が拡張されているの。
しぶ コペル君が「自分は社会に組み込まれている!」と気づくことを、小説内では「人間分子の関係、網目の法則」と言っている。人間は、物流ネットワークの拠点のように見なされているわけですね。難波さんは、この「人間分子」が、ジブリ版では「動物分子」に拡張されていると主張する。つまり、食物連鎖のようなネットワーク。
八角 この「人間分子」って考え方、面白いよね。先にその話、していいですか。
しぶ どうぞ。「人間分子」は『君たち』小説版に出てくる表現ですね。何が面白いと思ったの?
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