#創作大賞2024
心の病の可視化「今日もあなたに太陽を」
6月の梅雨の時期に決まって思い出す事がある。父のうつ病の事だ。
昭和の終わり、1988年の6月の事だった。42年も働いていたダムからの帰り、道に迷い、なかなか帰って来なかった。
父は「2,3日前、交通事故のあった現場を通り過ぎると急にわけがわからなくなった。気が付いたら、全く知らない森の中を走っていた。それから汗びっしょりになって死に物狂いで帰ってきた」
父が会社に出勤した最後の日の出来事。
ヤンキースの5番を空振り三振に仕留めた、マリリン・モンローの記録と記憶(4)僕たちみんなのマリリン・モンロー
『ピンチの後に、チャンスあり』も、また然りであった。
1954年2月13日、夜空に輝くハネムーンの甘い月光に包まれていたはずの旅路である。マリリンはしかし、悔し涙をポロポロ溢しながら、目の前で猛烈に憤るジョーに負けじと歯向かった。甲高い声で浴びせんとする野郎の痛烈な口撃のスウィングは、常軌を逸し、結局、空しく空回りするばかりだった。結果、新郎を空振り”STRUCK OUT(三振)”に仕留めた新婦は
ヤンキースの5番を空振り三振に仕留めた、マリリン・モンローの記録と記憶(2)Honey and Bitter…
本名を文字って《ジーン・ノーマン》と名乗ったこともある、と自身語っている。後に全身の毛を金髪に染めて《マリリン・モンロー》と名を改め、一世を風靡する事になるキュートな女の子《ノーマ・ジーン》は、1926年6月1日、ロサンゼルス総合病院の分娩室から、おそらく黄色い産声を上げた。
母・グラディスは、大手映画配給会社のネガ・カッターなどの仕事をしていたが、大恐慌の打撃を経済的にも精神的にも被り、病
1991年の可能世界
一九九一年、もしも彼がまばたきをしていたらこの世界は大きく違っていた、と僕は思う。
今この部屋には箱が十六個、椅子が五脚ある。床一面は適度な具合につるつるとしていて、三枚ある窓はどれも漸進主義的な等差数列のようにくすんでいる。僕はそれらが多少でも改善されることを真底望んでいるが、それは無理というものだ。一人ごとの悲しみをたたえたエンハーモニックが時折通り抜けるこの部屋は、今少しずつ死にかけ
広島ドラゴンフライズの下克上に投映された《インビクタス~負けざる者たち》南アフリカの不屈の魂を、みんなの為に体現したセンター・河田チリジの外偉人レコード④
季節外れの桜に酔いしれたのは2019年の秋だった。ラグビー日本代表・ブレイブブラッサムスの期待通りの番狂わせに、日本中が熱狂した楕円球の転がった先のクライマックスを、記憶している日本人も多いはずだ。
スプリングボックスの愛称で世界中のラグビーファンを虜にした南アフリカ共和国代表が、12年ぶり3度目のW杯を制覇し、同国初の黒人主将シヤ・コリシがカップを力強く掲げたのは11月2日、少し肌寒い横浜
命はじける、ロシアンルーレット万博
この記事は100%ふざけて書いています。
さあ大変だ。万博会場のあちこちからメタンガスが噴出しているのである。会期中にどこかが爆発するかも知れないというスリル満点の万博が開催されるのである。もうこれは前代未聞の大事件だ。昔、岡本太郎という画家は「芸術は爆発だ!」と言ったそうだが、今回爆発するのは芸術ではなくて「万博会場」なのである。ぜひとも万博協会の副会長である吉村洋文には「会場
“僕たちみんなの峰不二子”論
《国民的SEXシンボル》を問われれば、昭和生まれの日本男児らしく「あぁ...アレねぇ...」とか白々しく躊躇したフリをしながら、間違っても単刀直入にそんな大それたアルファベット3文字を口走ることなど憚られ、唸る芝居も打ちながら「Hmmm...峰不二子かなぁ...」と小声で答えるしかない。「峰不二子世代っすからね~…」とか視線を泳がせながら、自他を誤魔化す言い訳まで添えなければならない。僕よりオジ
もっとみる【歌詞】Treat yourself
【歌詞】Treat yourself(作詞/作曲/編曲/歌)
東京にもあった
抜けるような青空
ふと見上げたビルの
隙間の心色
程良く必死なんて
器用なことはできない
辿り着いた世界
今も揺れている
ピンチの後に チャンス
人生 プラマイ プラス
Treat yourself
自分を認める
優しい自分でいたいよ
温かくなる
頑張ったこと 一番知っている Treat yo