noteと・・・わたしとたわし
私の・・・という話は大概つまらない。
それなのに・・・noteでわたしのことを書く記事は
多数派だ。
野党が多数派だと
韓国や日本・ドイツ・フランス・・・
政権は薄氷を踏むように・・・
「アイスグランドが薄い場所を避けながら・・・氷上をさまよう」
アイスランドはグリーンランドのとなりだが
グリーンランドは・・・デンマークにとって
トランプのババ抜きのジョーカーのように
不安定な連立政権がジョークも言えないほど
弱体化して・・・薄氷を踏んでいる
大統領が白票で弾劾されそうな・・・
多数派が強行な韓国では
「大統領まで逮捕される」・・・が
日本やドイツ・フランスで首相や大統領が捕まることは
ほぼない・・・
レイムダック(lame duck)とは
「役立たず」「死に体」のことで
役立たずを・・・わざわざ独房に放り込まなくても
「発言力は漸減し・・・支持率は低下の一途」だろう。
「役立たず」は水に落ちた犬のごとく
「反抗して噛みつく」のは困難であり
集中して砲弾をぶち込む必要はないのに・・・
ギャラリーへのアピールとして
「更に手足を縛る」
それは「やりすぎでは」と眉をしかめる層を発生させる。
しかし・・・
「確証バイアスの餌食」になった多数派諸君は
「自分たちの賛同者の意見しか目につかない」ため
更に過激な仕打ちへと走る。
その点で
韓国大統領の逮捕とフジテレビの問題が同時進行で
進んでいることは
「単なる偶然ではない」
たわしより「役立たず」で年中「死に体」の小生でもそう感じる。
noteへせっせと投稿する作者や読者の皆様は
「SNS政権の就任式をテレビメディア前政権側のバイスプレジデント」
として参列する・・・
米国副大統領とフジテレビ副会長のような
にがにがしく神妙な顔つきにならざるを得ない。
フジテレビと民主党政権は
「独特の価値観で運営され」
自分たちは「正しいのに」世間はなぜ?
と戸惑っている・・・。
SNS政権の時代である。
「わたし」という主観を抜きに
記事を書くのは困難を極める
記事の主題や副題は72.4%が「私のこと」であり
本来日記は
「他者への公開を前提としない・・・そぶりで」
盗み見を前提として書かれるモノだが・・・
SNSは
「どうせなら思う存分見たら?」という
開き直りが諧謔性を担保している。
SNSの一分野のようなnoteで
「わたしの日記」を否定することは
72.4%のnote作者と94.7%の読者を敵に回す
キケン行為だ。
SNSを「私メディア」と呼んだ某評論家のテッチャンは
時代の隆盛が「個別にあちらこちらへふくらんでいく」
と評した。
バブルに見えるのは
「ふくらんでいる方向から見ているから」
であり・・・
磁力線の収束と同様に・・・横から見ると
広がりはほんの一部の現象でしかない。
あちらこちらに広がっているように見えるは・・・
バイアスがかかっているからであり
「現実の状態は別の角度で見ないと判別不能」となる。
「役立たず」の【わたし】が結束すれば・・・「役に立つ」
へ変化するのだろうか?
磁力に引き込まれる砂鉄や古釘は・・・
「磁力が強くなれば集まる数は多くなる」
ただし・・・
一定数の砂鉄と古釘が集まってしまったら・・・
「新しい仲間=磁気に反応する成分」を投入しなければ
いずれ限界を迎える。
たとえば・・・
「note利用者が800万人の1割」
およそ80万人が毎日利用するとすれば・・・
よほど「発信力の高い作者」の記事でも
1日最大で80万PVを超えることはありえない。
PVは1週間が最小単位であるが
「同じ記事を何度も読み返すのは作者だけ・・・」
仮に80万PVを1週間維持しても560万PVとはならない。
あらゆるSNSや媒体には
「登録するだけの幽霊利用者がいる」
幽霊利用者をゾンビの集団のように大量動員するには・・・
「いまなら利用者10万名に1万円プレゼント」
のようなインパクトのある企画・・・または
「フジテレビ問題の真相を独占公開」
のように・・・
この瞬間に破壊力が波動砲並の最終兵器
を投入するしか術はない・・・
役立たずの小生がたとえ1万人束になっても・・・
「たわしより面白くない小生の自分日記」または
「フジテレビの真相暴露」というニセ記事すら書けない。
磁力に引きつけられる読者の分母が変化しない限り
「破壊力は鳩も驚かない豆鉄砲」と同等だ。
たわしの話が・・・面白いのか?
たわしの歴史は19世紀末のイギリス職人が
植民地で無駄に捨てられるヤシの繊維を
「なんとか使えないか?」その発想で誕生した。
「亀の子たわし」と呼ばれ・・・
日本国内では絶滅危惧種と言われる
「金物屋店番のおばあちゃん」
がひっそりと商っていたイメージから
「日本古来の道具」だと勘違いされがちだが・・・
元々は舶来品である。
「たわし」のことすら無理解な
小生程度の「役立たず」より・・・世の中の
「焦げ・油汚れ・木製のデッキをこする」など
「社会の底辺で必死に日本の近代化を支えたアイテム」は
激落ちする・・・と過剰な表現で製品化されたケミカルスポンジ
に主役の座を奪われ・・・
ホームセンターや百均の棚の端っこでひっそりと
「新役立たず」化が絶賛進行中である。
激落ちするケミカルスポンジ
が当たり前の時代に
「前世紀の遺物」でせっせと擦る消費者は
オヤジギャグ濫用世代や高齢者が
「野菜の皮むきには亀の子たわしが一番」
と時々・・・月に3個程度売れる商品として衰退の一途だ。
「ヤシの実を毎日食べると激やせ!」
などのダイエット法が世間を席巻しない限り・・・
ヤシの実石鹸の利用だけでは
ヤシの実大量増産は起きないだろう。
化学繊維のたわしでも効果は限定的で・・・
手間のかかる旧来のたわしが
「おもしろいほど売れる」日はもう来ないだろう。
note利用者にとって面白い話は・・・
小生以外の作者が占有している。
有名作者並の面白い記事は滅多に捏造できない。
たまに出物を発信しても・・・
オモシロイと「わたし」が根拠なく主張する記事・・・
専門紙や学術雑誌ほど難解で意味不明・・・・
何回も読み返してやっと意味が理解できるような
紋甲イカでスルメを作ったように・・・
「歯ごたえが強く嚙み切れない」
従って・・・・
発信は発進できず・・・
「気が抜けたサイダーのようなただの砂糖水」
として・・・note社のハードディスクを無駄に占有する。
たわしは・・・
最低でもわたしよりオモシロイので
小生の立場は無きに等しい。
懇切丁寧にしたため・・・
呻吟しながらSingingして・・・
紡いだ文章が・・・
泥濘の根菜のように・・・
「スポット抜けるなら…」
スポットCMどころかスポンサーが抜け落ちた
埋立地の放送局より・・・
アバターが疱瘡のように・・・
エクボと本人が言い張る空隙を埋め立てるのはアクネ菌だ。
アクネ菌を数字やお金に変換できるのは
「某ニキビ治療石鹸」だけだ。
たわしの市場価値は剥落し・・・
家庭の台所では希少品種や絶滅危惧化するのは目前だ!
掃除用具としての亀の子たわしは・・・
形にこだわる日本料理屋の厨房で滅多に来ない出番を・・・
「告白する勇気も無い男子中学生のように…」
物陰でひっそりと佇むのみ。
昔は・・・小湊鉄道で「走る博物館」として
古典芸能並みに・・・際立った存在価値を示す
「キハ200」※とほぼ同構造の「国鉄気動車20系」
は床が木張りで・・・終着駅であった室蘭駅では
「デッキブラシが入らない隙間や端」を
掃除のおばちゃんが亀の子たわしでせっせとこすっていた。
しかし・・・小湊車両の床は
「こすればピカピカ光るリノリューム張りだ!」
リノリュームの床は亀の子たわしでこすれば傷だらけになり
光るどころか光を失わせる。
「わたし」を「たわし」で光らせるためには
木張りの床が良い。
タール分で・・・油分を十分に補給した床は
断熱性や防汚性だけでなくぬくもりすら感じる。
気動車に乗り込んだ瞬間「うっすらと鼻を刺激するタール臭」が
私が鉄道で意識した「初めての香りだ」
小生の自我は「汽車にやたら乗りたがる幼稚園児」
その時期に成立したようだ。
汽車に乗せるだけで満足した幼児
自我だけが肥大した幼児は
認識や把握が幼児並の中年男性として
本質的な変化は皆無だ。
「自我の適正化には幼児体験が重要だ!」
自画像は客観的に自身を描ける画力がなければ…
「過剰な卑下か異常な自己肥大」
を招く惨劇の序章である。
自画像を文章化するのは日記の役目であり
現代の電子ディバイス型日記は
自画像の適正化や抽象能力が
「芸術には不可欠な素養」であるように・・・
「文章で自身を等身大に描けない」小生へ惨劇をもたらす。
惨劇は散華を尊ばぬ自己実現への不毛なのろしだ。
インド僧は散華をサンスクリット語で記す・・・
現代では稀有となった大乗仏教の根幹思想は・・・
だいぶ丈夫な小生をなぞらえるのに似ている
大概はつまらない話をつぐむ
小生の文章をここまで読んでしまったのは惨劇でしかない。
たわしは出番が減ったが・・・
わたしの方がもっと出番がない。
たわしはわたしより・・・妻には有用だ。
つまらないわたしは結局
たわしの話を詰められない。
たわしとわたし・・・
どちらも見た目はふてぶてしい・・・
しかし・・どうにもうまく落とせない
👇うまく落とせるのは彼だ!