「ここにいる」/「未来はどこにある?」アスリープ(ASLEEP)森泉岳土 灰色の光の本という形をした物質の時間
「ここにいる」/「未来はどこにある?」
判然とした黒と白が失われ灰色の中に混濁し、過去と現在が溶解するモノトーンの光に覆われた世界の中で、発せられるひとつの叫びとひとつの問いかけ。存在するものは、その叫びと問いかけしかない。形あるもの動くもの生きているものは、それしかない。モノトーンの中から現れる唯一の明晰さ。
灰色の光の、本という形をした時間の物質。その物質から時間から、声が吐き出され、言葉が刻み込まれる。その物質化した灰色の時間の中で、言葉が発せられる。その滞留し凝固した流れることを止めてしまった時間の中で。何処までも世界に浸透する未来を欠いた灰色の光の中で。炎のように。
ひとつの叫びと、ひとつの問いかけ。
それが、世界の全てだ。
No1:灰色のモノトーンの中のモノローグ、あるいは、とても短い物語(ストーリー)
とても短い物語(ストーリー)。カタストロフィの後の中の、灰色のモノトーンの中で繰り返されるモノローグ。旅の果てに辿り着いた崩壊する都市の中で。
幾つかの記憶と幾つかの事柄。それだけしかここにはない。説明はない。カタストロフィの理由も、その経過も、その世界ついての説明も一切ない。全く何の説明も解説もない。目覚めた時から誕生した時から、世界がそうであるかのように。複雑で入り組んだ人間の欲望と葛藤から成る希望と絶望の物語も、悔やむことしかできない誤りを告発する悲痛な警告も、青空の下に広がる新世界へ人々を導くような眩しい啓示も、ここにはない。一切がない。彩を持つもの、その全てが存在していない。モノトーンだけが存在する。
登場人物らしき者は、一人だけだ。その者のモノローグしかない。応える者のいないモノローグ。そのシンプルなモノローグが全編を包む。ここに複数の出来事の開始と進展とその収斂という結末の物語(ストーリー)を求めてはいけない。物語(ストーリー)には、始まりもなければ終わりもない。時間が流れることを終えてしまった、時間が停止してしまった世界。崩壊する都市に流れることを止めてしまった沈黙の時間が静寂の中で堆積して行く。
灰色の光の中で。
No2:これを何と呼べばよいのだろうか?
これを何と呼べばよいのだろうか?
形式として体裁として捉えれば、見掛けは漫画なのかもしれない。しかし、外見のことを言っているのではない。漫画も、バンド・デシネ(BD)も、グラフィック・ノベル、あるいは、大人の絵本、といった言葉もこれを指し示す言葉としては不適切だ。似つかわしくないと言っているのではない。そうした呼び名は、不適切であり、間違っていると言っているのだ。外見ではなく、その内実がそれらの呼び名を拒否している。これの内側に存在しているものがその呼び名を退ける。既存の如何なる呼び名を用いても、これを呼ぶことはできない。仮に作者がそのようには思っていなかったとしても。
では、これは何なのか?
これは詩(poetry)なのか?
詩(poetry)。そうかもしれない。これは、詩なのかもしれない。 詩(poetry)を〈有限の中で切り開かれて行く無限〉とするならば、これは〈詩(poetry)〉であるのだろう。しかし、詩(poetry)が、言葉が言葉であろうとしながら、言葉であることを根拠にして、言葉を超えるその極限の必然の形であるとするのならば、これを名指しして、それを呼ぶ言葉を「詩(poetry)」とするだけでは、不十分であり収まり切ることができない、と私は思う。なぜなら、これは手に触れることができるからだ。それは手で触れることができ、硬さと柔らかさを持ち、鈍い光沢さえ放っているのだ。詩(poetry)であるにもかかわらず。
No3: 灰色の光の本という形をした物質の時間、そこで、言葉が叫ばれ、刻み込まれる
これは何なのか?
これは詩であり、時間であり、物質であり、そして、光だ。本の形をした。
その言葉が言葉であろうとして発せられるその瞬間の時間。詩(poetry)が詩(poetry)として誕生するその一瞬の時間。灰色の光の中で、その時間が生まれ、それが物質として結晶したものだ。灰色の光の本という形をした物質の時間。灰色の光の本という形をした時間の物質。
19cm×26cm×1.5cmの灰色の光の時間。
No4: ひとつの叫びとひとつの問いかけがなされる
静止してしまった時間の中で、唯一、時間が裂けるように切り開かれる。止まった時間を壊すように、灰色のモノローグの中で、ひとつの叫びとひとつの問いかけがなされる。応える者が存在しないその灰色の光の中で。
その震えるような瞬間の時間。詩(poetry)が詩(poetry)として生まれ、言葉が、溢れ返る色彩の光となって解き放たれる。埋め尽くされ塗り重ねられたモノトーンの世界の中を、その光である言葉が照らし出す。
No5:未来は何処にあるのか?
このとても短い物語(ストーリー)の終わり近くに、擦れ違うように、主人公は自分以外の者と出会うことになる。僅かな淡い言葉の断片の交換。始まった途端、終了してしまう幽し会話。しかし、この幽し会話がこのとても短い物語(ストーリー)の方角を劇的に転向させることになる。
その主人公以外の者が主人公に伝える。
「物質(マテリアル)はつねに崩壊に向かいますが、本質(サブスタンス)は生き残ります。」(「アスリープ(ASLEEP)」P37より引用)
そして、この本の題名の真の意味がはじめて開示されることになる。「アスリープ(ASLEEP)」の本当の意味が。灰色の光の中で、世界がその様相を変容させ、主人公のチタルを未来が存在するかもしれないその可能性の場所へ出発させることになる。黒と白の混濁した灰色の中から、ひとつの白い光が生まれて来る。チタルの言葉がその白い光に包まれる。
死んでしまったのではない、眠っているだけだ。世界は。 本質(substance)は決して壊れることはない。その物質的(material)相貌がいかに変わろうとも、本質(substance)は、何ひとつ損なわれることなく、そのままの姿で、膝を抱え体を丸めるようにして、眠り、存在し続けている。
それは誰かに救出されることを待っている。それは生き残っている。それは覚醒する時を待っている。
世界は滅亡してはいない。
No6:灰色の光の中のわたしたち、これはわたしたちの物語(ストーリー)
その叫びと問いかけが、わたしたちのものであるということは、言うまでもない。ここに描かれている世界はわたしたちの世界そのものだ。チタルは、わたしであり、あなたであり、彼であり、彼女であり、わたしたちのことだ。
これは、わたしたちの物語(ストーリー)。
Epilogue:詩人の手によって、私は灰色の光の岸辺に漂着する。
詩人の三角みず紀さんによって、私はこの本の、揺蕩う灰色の光の波打ち際に流れ着いた。漂着するように。詩人の放つ言葉が灯台の火になるということの意味。
「アスリープ(ASLEEP)」の作者の森泉岳土さんのことはすでに知っていた。村上春樹さんの「螢」を漫画にされている。傑作。だが、この「アスリープ(ASLEEP)」ことは、危うく知らないままで過ごしてしまいそうだった。三角みず紀さんに深く感謝したいと思う。
三角みず紀さんと、その詩について
詩人、三角みず紀さん。四冊の詩集と私。「オウバアキル」(2004)「カナシヤル」(2006)「錯覚しなければ」(2008)「どこにでもあるケーキ」(2020)
信じられなく戸惑ってしまうことなのだが、壊れてしまった砕けてしまった、あるいは、壊れてしまいそうな壊れてしまう直前のわたしの気持ちが、その中に存在している。つかみ取ることができなったわたしの気持ちが、わたしの手からこぼれおちてしまった気持ちが、そこにある。わたしの痛みと希望と絶望がここにある。
私達を基準とするならば
皆かわいそうに不幸なのだ
血が必要だ
溺れてしまう程の
たくさんの血が必要なのだ
眠ったままの恋人の
顔を見ながら
詩を書いている
私達はきっと幸福なのだろう (三角みず紀 詩集「オウバアキル」の中の〈私達はきっと幸福なのだろう〉より引用)
でも わたしはそんなに簡単じゃない
でも わたしはそんなに複雑でもなくて わたしに貼りつく名前を
剥がしてみたら
なにものでもなくなって (三角みず紀 詩集「どこにでもあるケーキ」の中の〈森の生活〉より引用)
わけもなく
わけがあっても
嗚咽が漏れだす
庭の花々が香りになって漂い
いつまでも
獣のわたしを包みこもうとしていた (三角みず紀 詩集「どこにでもあるケーキ」の中の〈春と獣〉より引用)
森泉岳土さんと、その作品のこと
森泉岳土さんの作品を漫画というカテゴリの中に入れてよいのか、私には判断がつかない。その作品がこれまでのどのような「漫画」とも似ていないからだ。私はまだ森泉岳土さんの作品の多くの中のほんの幾つかしか読んでいない。しかし、「アスリープ(ASLEEP)」は森泉岳土さんがこれまで積み重ねてきた表現の試みのひとつの到達点であり、その結実を示すものだと私は思う。
これまでに私が読んだ森泉岳土さんの作品は次のもの。これらの作品についても文を書いてみたいと思う。何度も読み返すことを求める重層的作品。 (「セリー」の世界は「アスリープ(ASLEEP)」とも繋がっている。)
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