マガジンのカバー画像

短編小説

64
運営しているクリエイター

記事一覧

【短編小説】繊細な職場の後輩

【短編小説】繊細な職場の後輩

「…回覧している資料を渡すときって、その席の方が着席していた場合、手渡しがいいですか。机に置くのがいいですか」

火曜日、午前9時35分。連休明けでただでさえ体が起きていない時だったので、思わずんお、と呟いてしまった。質問してきた後輩は、聞こえなかったらしく下を向いたままだった。

何やら悩んでるようだったので、小休憩がてら事務室から抜け、自販機に誘い込んでみたらこれだ。なりたくもないのになってし

もっとみる
【短編小説】はしる

【短編小説】はしる

走るのが苦手だと言う人は多いが、私は大好きだ。小学生の頃、ヒエラルキーの上の方には足の速いやつがいた。つまり私だ。それが中学校高校と上がるごとに、どんどんとそのランクは下がっていき、頭の良いやつ、顔の良い人が、結局最終的には山頂に立っていた。旗を持っていたはずの右手は、いつのまにか空を握っていた。
私は見上げるしかない人生に落ち着いた。

足が速い事は良いことではある。別に普通に褒められるし、うら

もっとみる
【短編小説】やん

【短編小説】やん

今日何度目か分からない落胆がテーブルの上に落ちる。
やってきていたハンバーグ定食に手を付けようと、箸を持ったところだった。
粘膜で動きを封じられたみたいに私の動きが鈍くなる。
 
「そういえばこの間『やん』とね…」
向かい合った先で、彩音が机上を眺めながら口をまた開いた。「ここ来たんだー。窓際の席だったかな。ドリンクバーだけでめちゃくちゃ居座っちゃったの」
ドリンクバーだけ。注文は席に置いてある液

もっとみる
【短編小説】夜のあお

【短編小説】夜のあお

最近息子が、夜空に浮かぶ星を「人」だと思っていたことが判明した。

「あーお、あーお」

最近やっと立ち上がることを覚えた一人息子と、夫と、よく夜に散歩する。そんな時に息子が、よく空を見上げて言っている言葉だった。

「ねえ、もしかして蒼って言ってる?」

はじめに気が付いたのは夫だった。

夫が発した言葉に最初困惑したけれど、すぐに『夫の弟』のことだと分かって首肯する。息子のぷにぷにした息遣いが

もっとみる
【短編小説】なんで私じゃなかったの

【短編小説】なんで私じゃなかったの

急に誰かのことを思い出す瞬間がある。

それはいつだって突然で、衝撃を伴うものだった。一瞬何が起こったか分からなくて思考が止まる。そのあと何秒かして、ああ、と地面に膝をつくような諦念が生まれる。

後悔やあきらめが脳の裏側いっぱいに広がるのは、思いだすのが、いつも戻れない過去だからだ。やり直せないって、どうしてこんなにしんどいんだろうか。

この時思い出したのは、姉との思い出だった。

姉は5年前

もっとみる
【短編小説】寝付けない夕暮れ

【短編小説】寝付けない夕暮れ

「休めない日」に体調を崩してしまった。
40度近く熱が出て、ひいひい言いながら病院に行ったのが朝だった。つい数年間まで実家で暮らしていて、家には常に母と、まんまるなポメラニアンがいた。ちょっとしんどいと言えば、車でぴゅんと病院に連れて行ってもらえていた。一人暮らしを始めた今はそれが、ありがたかったことだと実感している。
職場に連絡した時、上司は優しかった。「疲れが出たね。ゆっくりしなよ。こっちでや

もっとみる
【短編小説】つきぬける晴天がほしい

【短編小説】つきぬける晴天がほしい

雨が降ってきてしまった。
正月が終わって、日常が始まったと思った途端にこの土砂降りだ。雪じゃないだけまだましなんだろうけど、それにしても億劫だ。もしかしたら、雪の方がいろんな交通機関も止まってくれて、行かない言い訳になってくれたかもしれない。そう思いついてしまうとさらに身体が重くなった。もっとも、自家用車で通勤している自分には長い渋滞に辟易している姿の方が想像しやすかった。スタッドレスに変えていな

もっとみる
【短編小説】言葉と待ち合わせ

【短編小説】言葉と待ち合わせ

そのブックカフェは、想像よりも緑に囲まれていた。わたしは入った瞬間、思わずおお、と呟いていた。圧倒される。パキラやオリーブなどが、大きな鉢で床に直置きされていて、天井からはいくつものハンギングポットが吊るされている。名前がわからないのもあるなぁと思いながら近づくと、丁寧に小ぶりのプレートが付いていた。「グリーンネックレス」「アイビー」「コウモリラン」…
フェイクグリーンかと思ったけれど、ちゃんと爽

もっとみる
【短編小説】きれいすぎる

【短編小説】きれいすぎる

偽善とかそんなふうに言うつもりはないけど、それにしても、きれいすぎる、とマチは思う。
祝日の図書館、カウンターの内側に立って、書架をわかめみたいにウロウロしている人たちを見ながら、やっぱ、そうなんだよなぁ。と頷く。

きゅうにこんな思考回路に陥ったのは、マチの視線に入る場所で、他の司書が、側面展示を作っているからだった。

司書は、印刷してきたばかりのポスターを大切そうに貼っていた。展示は、職員が

もっとみる
【短編小説】1人なのは1人だけじゃない

【短編小説】1人なのは1人だけじゃない

12月が来てしまった。
つい何週間か前まで半袖だったような気がするのに。電車の中でため息をつく。澄んだ空気が世界を支配するはずの朝、大勢の人で敷き詰められた車両の中は息苦しく、ほぼ大多数の人間がスマートフォンをいじっている。空気が少ない。濁った川のように淀んでいる。スマホを触っていない自分からすれば、何をそんなに一生懸命、確認することがあるんだろうかと思うが、最初はぼーっと見ているうちに、だんだん

もっとみる
【短編小説】くだらない軋み

【短編小説】くだらない軋み

自分が気にしすぎただけなんだろうか?

「ごめん、今日遅くなる」

さっき妻から来た連絡だった。たった1行のその文章が、自分を小さく包み込んで、突き放す。脱力感が体を襲う。どうでもよくなってしまう。今日が記念日だということも。リビングにある、丸い3人座れるテーブルには、今できたばかりのパスタがあった。ひき肉とトマト缶を買ってきて、ソースを作った。湯気が出ている。幸せの象徴みたいだった。今からこの湯

もっとみる
【短編小説】決めつけ

【短編小説】決めつけ

感情移入されたくない時の、それなのにこちらの心に勝手に侵入されてしまったときの、あの不躾なくせに、心配そうにのぞいてくる表情が耐えられない。

「気に病んでないといいけどねえ」

先輩の声が聞こえて、またわたしの想いが勝手に抜き取られ、心配ですねと言われている。わたしは別に、気に病んでなんかいない。なにも感じていない。それなのに彼女たちは、「わたしが傷ついている」事を勝手に作り出して、自分たちの話

もっとみる
【短編小説】散々だちくしょう

【短編小説】散々だちくしょう

3年日記を持っている。
同じ日付の中に3つ書き込めるエリアがあり、どんどん書き進めていくと2年前、3年前になにをしていたかがすぐにわかる日記だ。3年前の今日に、今まで日記なんて書いたことがなかったのに買ってみたのだった。

多分、恋人と付き合い始めたばかりでいろいろ思い出を残したかったのかもしれない。さらに言うと、デート中に購入したので、『ていねいな女』とか思われたかったのかもしれない。

案の定

もっとみる
【短編小説】赤ちゃんとパン

【短編小説】赤ちゃんとパン

赤ちゃんの手とパンを並べて写真を撮る、というのを、一度はやってみたかった。

午前3時20分という、人によって朝なのか夜なのか、そんな秒針あったっけ?なのか、感覚がくるっと変わる時間。我が愛娘はやっとすんなり眠ってくれていた。夫は夜勤で、家には私と赤ちゃん、母と娘の二人しかいない。
半日前に夫がスーパーで購入してくれた「やさいパン」を、そっと取り出してくる。
そこまでは良かった。

シャッター音が

もっとみる