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【短編小説】繊細な職場の後輩
「…回覧している資料を渡すときって、その席の方が着席していた場合、手渡しがいいですか。机に置くのがいいですか」
火曜日、午前9時35分。連休明けでただでさえ体が起きていない時だったので、思わずんお、と呟いてしまった。質問してきた後輩は、聞こえなかったらしく下を向いたままだった。
何やら悩んでるようだったので、小休憩がてら事務室から抜け、自販機に誘い込んでみたらこれだ。なりたくもないのになってしまった先輩(自分のことである)はつらい。こっそりとアデランスに通っている自らの頭髪に触る。
Z世代がどうとか最近の若い奴がどうとかいうつもりは毛頭ない。ないが。と頭を抱えたくなる。最近本屋で「繊細さん」という言葉を目にしたことがあるが、こういう奴のことなんだろうか。手に取らなかったので分からない。
独身が長いせいか自分をおっさんと感じることが既婚者よりは無い。しかし新卒の、ひよこのようにほやほやとした、大学を卒業したはずなのに、まだ高校生ですみたいな若者がどこどこと入社してくると、ああ、と危うく落涙しそうになる。やってきているのだ。俺にも「おっさん」が。まだまだジャンプっ子なのに。昆虫のようにひっくり返り、寝返りを打たないまま赤ん坊のように泣き叫びたくなる。
後輩を置いてきぼりにしている事実に目が覚め、浅い現実逃避から戻ってくる。当人は影をおとしたままだった。
「それでなんか、元気なさそうだったの?」
元気ないね、という声掛けも最近はあまりよくないらしいが(ソースは知らない。社長が言っていた)まあ別に、いいだろう。そんなことまで気にしていたら、全ての言語を検閲されかねない。
「…はい」
消え入りそうな声で返事され、そのあとは沈黙の支配に体をゆだねる事になった。言葉を探し、何パターンか返事を考えたが、最終的には「気にするなよそんなこと」という苛立ちを語気に含んだ言葉だった。いったん脇に寄せ、八つ当たりしているようにならないような返事を探す。「おーん、そうかあ」と相槌を打ち時間を稼ぐ。
どうでもいい、その時々で適当にやっていけばいいだろうが、いろいろ机に置いてあったとしても、上にぼんぼん乗せていけばいい。自分の机なんだからだいたい分かる。そういえばこの際だから言いたいが、あと、こっちが手を動かしている時に「回覧の資料です」とわざわざ両手で差し出してきて、相手が手で受け取るまで待つのはなんなんだ。別に受け取る気がなさそうなら「ここ置いときますね」とか申し添えてどこかに置いておけばいいだろう。別に後から「自分はもらってない!みてない!」なんて言わない。毎回こちらが「その辺置いておいて」と言わなければならないのか。なぜこのくらいの事が分からないのだ。
返事が見つからない代わりに心の声が荒くなっていく。
苛立ちが小さく、けれど確実に積もっていく。
思ったままにぐるぐると頭の上を走り回る小さな自分を、いったん鷲掴み放り投げる。今は後輩に返事をせねばなるまい。
「うーーーーん。そんなに気になるんだったら一人ひとりに聞いてみたら?」
「え?」
ここにきて、やっと後輩-山田と目が合った。瞳はやはり無垢な色をしている。不思議なくらい茶色い山田の目を、できるだけぼーっとして眺めた。
「山田君がなんでそれを気にしてるのかって、不確定なことだからじゃないの?分からないから霧のなかにいるみたいに不安になるんでしょ。でも今気にしてることは相手があることで相手の気持ちによる事なんだから、まあじゃあそれぞれに『回覧の資料についてなんですけど』って聞いてみるしかないと俺は思うよ。あー、あとは、周りがどうしてるか一旦見てみれば?参考に。したらまあ、自分の行動と照らし合わせて反映もできるでしょ」
後輩があまりにもじっとこちらを見てくるので、喋りすぎただろうかと体を固める。
もしや、ただ悩みを頷いて聞いてあげたら良かったパターンか?「チッうるせえハゲだな」などと思われていたらショックだ。禿げていることはうるせえことと直接的に相関していない。お願いだからこれ以上「独身少年の心忘れずに生きてるおじさん」をいじめないでほしい。こちらにも心があります。同じ人間です…
思考がまた飛んで行っていたところへ、山田の声が響いた。
「ありがとうございます」
「…ん?お、ああ」
思ったよりもシンプルな返事だった。そのあと続けて、まずは皆さんを見てみます。と言った。その表情が、気のせいでなければさっきよりも柔らかくなっていた。
「繊細さんって言葉、先輩は知ってますか」
山田の言葉に、さっきまで思い浮かべさらにお前の額に描いていたよ、とは言わず首を振った。「そうですか。…僕は、昔から気にしすぎだよってよく言われるほうで。ここに入社してから、というか就活中は出さないようにかなり気を付けていたんです。それが入社して半年したくらいから、急にこう、出てきちゃって。床に横たわってた綿埃に気づくみたいに。なんでか本当に分からないんですけど」
ここで山田が言葉を切る。すう、と小さく息を継いだ。
「で、あーやばいなって思ってたんです。ちょうど。こんなこと誰も気にしてねえよって心の中では分かってるんですけど、その冷静な自分が、僕を蔑んでいるって分かっているのに、気にすることを辞めればいいだけなのに、やめられないんです。もう見えてしまったから。埃が。しかも拾っても拾っても新しいのが気が付いたら落ちてて。もうやだなって思うんですけど。その繰り返しで」
やめたいのにやめられない。
そこだけを抽出し吐露されて、初めて山田に感情移入ができた。なるほど。それは確かに分かる。腑に落ちていると、山田が小さく頭を下げてきた。
「だから、ありがとうございます」
「え?」
「先輩、気にしすぎだろって言わずに具体例を挙げてくれたじゃないですか。つき放さずに」
罪悪感の槍が体を一突きにしたが、かろうじて急所を外し意識を保つことができた。いや、あのな、さっきまでめちゃくちゃ思ってたんだわ、と心の中で業者がワックスしたばかりの床にめり込むほど土下座するに留める。さっき放った筈の小さな自分があっぶね!!と頭上で大声を出し叫んでいた。
「まーあれだ。…うん。戻るか」
「はい」
お互い持っていた缶コーヒーをゴミ箱に格納する。はぐらかしたことをどう思われたかは分からないが、もう時間も経過していたし仕事に戻るのが得策だろう。つーかただただ気まずい。ごめん山田。
自席に戻りPCのスリープを解除した所でしかし、と溜息を吐く。今回の事は、戒めになった。
自分がその時一瞬目撃した出来事を、その人のすべてだと思ってはいけない。その映像パーツは想像を遥かに超えた小さな一部なのだ。
一旦言葉にすると、あまりにもあっけなく、当たり前の事で、羞恥心が背筋を襲った。ああ、こんなことですら俺は、実際に起こらないと分からないのだ。
ふと向かいの席に座る山田を見ると、真顔でPCを眺めていた。なにを考えているのかは分からない。だが勝手に、少し近づけたような気になる。
会社内では、人との付き合い方に気を付けなければならない。
だがまあ、相手を確認しながら、どう?と声を掛けるくらいは良いだろう。軌道を変えられる程度に寄り添うくらいは。
そう思いながら、さっきお礼を言ってきた山田の表情を瞼の奥で反芻した。
おわり