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【短編小説】言葉と待ち合わせ
そのブックカフェは、想像よりも緑に囲まれていた。わたしは入った瞬間、思わずおお、と呟いていた。圧倒される。パキラやオリーブなどが、大きな鉢で床に直置きされていて、天井からはいくつものハンギングポットが吊るされている。名前がわからないのもあるなぁと思いながら近づくと、丁寧に小ぶりのプレートが付いていた。「グリーンネックレス」「アイビー」「コウモリラン」…
フェイクグリーンかと思ったけれど、ちゃんと爽やかな香りがする。こんなにたくさんの緑に、毎日水やりをしなければいけないと考えると、頭が下がる思いがした。わたしは、何度も枯らしたことがある。
一緒に来た美香もおしゃれーと笑っている。十席ほど、ふぞろいだけど統一感がある机や椅子が置いてある。壁面に本棚があり、絵本や雑誌、小説などが敷き詰められていた。お昼ご飯にちょうど良い時間だったけど、平日だったこともあって、1人、年配の女性が、本を読みながら過ごしているだけだった。
「正直、全然本とか読まんよなぁ」
それぞれが頼んだランチを全て食べ終わり、デザートとコーヒーが机に並んだとき、美香がそう言った。本棚に並ぶいろんな本を眺めている。そんなことをしゃべっている割には、背景に本棚が来るように、デザートを撮影しようとしている。
正直、わたしもそうだ。
今日だって、Instagramをずっと見ていて見つけたお店だった。
国語はずっと苦手だった。教科書や試験に出る物語では登場人物の気持ちを3択の中から選べと言われ、大人になって勉強から解放された瞬間、登場人物の気持ちに答えはないと突き離される。小学校、中学校、高校、大学と、あらゆる場所で、「本を読みなさい」「絶対に役に立つから」などと言われ続けたけど、結局、食指が動かなかった。今まで困ったこともない。
だからきっと、これからも-
「もったいない」
美香とわたしの笑い声に、誰かが割り込んできた。お互い顔を見合わせ、聞こえた声が、気のせいではないことを確かめ合った。カフェの店員はキッチンの中にいて、目に見える場所にはいない。改めて店内を見渡すと、私たちが来店するよりも前からいた、年配の女性が、こちらを見て微笑んでいた。
「言葉の魅力に気がつかず過ごすなんて、ほんまにもったいない」
女性は明瞭なよく通る声で、それなのに、柔らかい雰囲気のままだった。諭すような表情はまるでなくて、心からもったなさそうに、眉を下げている。と、わたしは思ったけれど、美香はそうではなかったらしい。
「いやー、なんか、役に立ったことないというか」
美香が臆することなく、朗らかに言い放った。こういうときの美香は、すごい。自分の気持ちだけを、小さな女の子のように伝えることができる。でもわたしは、女性の手に握られている本を一瞥して、いや、美香、それは火に油を注いでいるんじゃ?と腕を引きたくもなった。
せっかく楽しいランチタイムだったのに、嫌な気持ちでこのカフェを出たくない。
「役に立ったことがないのは、役に立つことすら知らんからですよ。掃除機の存在を知らんまま雑巾掛けしてて、掃除機が欲しいなあとは思えんでしょ?」
女性は変わらず微笑んでいる。美香の言葉に怒った様子は一切ないまま、知らんからですよ、と口が動いている。それ以外は静止画のようだ。これだけなに1つ動かないのもすごい。なんとなく神々しい。
「本の中にある言葉たちは、ずっと、悲しいときに助けるよーとか、約束してくれとるよ。でもそれは、前提があってのことじゃけえね。」
「前提?」
わたしは思わず聞き返した。わたしが声をあげることは、彼女にとってなぜか少し予想外だったようで、少し目を見開かれた。その後うれしそうに瞳が細くなった。
「そう。前提というか、準備ね。悲しいことがあったときに、思い出せる準備。悲しいことがあったな、でも、あの本にこう書いてあったから…って思い出せるように、元気なときに読んでおくの。その準備が、人間には必要なんよねえ」
美香は少し不遜な顔をしながらも、おとなしく話を聞いている。こういう美香が、わたしは嫌いじゃない。
「言葉と待ち合わせする約束をするために、読むの」
女性の言葉は、森の中にある湖のようだった。
静かな中で残響する。
「待ち合わせの約束もしてないのに、合流はできないでしょ?
言葉はいつも、あなたたちを待ってるよ。あなたたちが、待ち合わせ場所に来ないだけ」
女性はそのまま立ち上がって、カフェを出て行った。わたし達は、何故か言葉を発するどころか、指1つ動かすことができなかった。ドアに引っかかっているベルが、リリリンと鳴って、音をなくした。
「…なにあのおばあちゃん…」
美香は怒っていると言うよりは呆れた感じでため息をついていた。詐欺?と続けていたけれど、わたしはどうしても、彼女に、こちらを籠絡するような雰囲気を感じ取ることはできなかった。
けど、わたしはこれからなぜか、女性の助言を受けて、本をたくさん読むことになる。
彼女の言っていた、『待ち合わせ場所』にどうしても行きたくなってしまったから。そこに、どんな言葉がいてくれるんだろう。気になってしまったから。
まぁ、それは、また別のお話。
おわり