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【短編小説】寝付けない夕暮れ


「休めない日」に体調を崩してしまった。
40度近く熱が出て、ひいひい言いながら病院に行ったのが朝だった。つい数年間まで実家で暮らしていて、家には常に母と、まんまるなポメラニアンがいた。ちょっとしんどいと言えば、車でぴゅんと病院に連れて行ってもらえていた。一人暮らしを始めた今はそれが、ありがたかったことだと実感している。
職場に連絡した時、上司は優しかった。「疲れが出たね。ゆっくりしなよ。こっちでやっとくから」
よくドラマやSNSで見聞きする「なにがあっても出てこい」と恫喝されるようなことは一切ない。正直言うと、自分は、人生でそんなこと一度もない。人よりも学生の頃からバイトとか、大学でのサークル活動とか、いろいろやってきたつもりだけど、ハラスメントは一切体験したことがない。それはいつだって画面の向こうで行われていることだった。
自分にとってはたくさんのことがそうだった。政治家の不祥事、地球の環境汚染、貧困問題、芸能関係の不祥事…。いつも「試験に出る」ことだった。周りで起こることは、いつだって、教室に座っているクラスメイトから芽吹いていた。小さないじめ、稚拙なからかい、誰かと誰かが付き合って別れたっていう、コンビニで盗まれたビニール傘みたいな噂…

インフルエンザでもコロナでもなかったから、処方された解熱剤を飲んで寝ていた。
瞼を閉じて、次に開くと、数時間が簡単に過ぎていく。繰り返すと夕方になった。意識ははっきりしていた。寝不足だったのかもしれない。瞼は軽い。でも体は重かった。
トイレに行く。ズボンすらおろすのが億劫だった朝に比べると、だいぶ楽だった。おなかが減ったので、ベッドに戻り食べかけのまま机の上に置いていたポテトチップスを食べた。口に含むと、思ったよりもしなしなしていた。
意識がのろのろと、スローモーションで流れる線香花火のひとつぶみたいに飛んでいく。

自分が初めて主幹になり動いているイベントだったのに。
つい一昨日のことが、遠くのように感じる。用意していた景品が納期を過ぎても届かなくて、確認してみたら到底間に合う日程はなく絶望した。もうすで懐かしい。ただのポケットティッシュなのだが、こちらで指定した絵を印刷した紙がはさまっているはずだった。
仕方がないので付け焼刃作戦で、店をはしごしてかき集めたのが昨日。

ポテトチップスがからになったのを確認してベッドに倒れこむ。視界にチェストが入ってきた。ひきだしが6つある。全部半開きだ。そのなかのひとつひとつに、なぜかたくさんの思い出がはいっている気がしてきてしまう。いつの何が入っているだろうか。
考えているうちに、またやっと、意識がとろとろとまどろんでいった。

オレンジ色になるはずの夕暮れは、ただ暗いだけの部屋と自分を残して去っていく。

おわり

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