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【短編小説】やん

今日何度目か分からない落胆がテーブルの上に落ちる。
やってきていたハンバーグ定食に手を付けようと、箸を持ったところだった。
粘膜で動きを封じられたみたいに私の動きが鈍くなる。
 
「そういえばこの間『やん』とね…」
向かい合った先で、彩音が机上を眺めながら口をまた開いた。「ここ来たんだー。窓際の席だったかな。ドリンクバーだけでめちゃくちゃ居座っちゃったの」
ドリンクバーだけ。注文は席に置いてある液晶パネルだけど、それでも店員の苦い表情が想像できた。
私は笑顔を作る。うまくできているだろうか。
「そうなんだ。『やん』も彩音もお腹すいてなかったの」
注目すべきところを避けてしまいたくて、早めに口を出す。本当は、23歳にもなってそんな乞食のようなエピソードを朗々と話している彩音に眉を寄せたかった。
「いや、空いてたよお」
私が『彼氏』と言わず、真似て『やん』と呼ぶと、彩音は喜ぶ。知っていて私は、あえてそう呼ぶ。
「だけど『やん』がお金なくて。私もないから仕方なく」
続くのかと思ったけど、そのまま彩音はパフェを頬張った。続かねえのかよと口内で悪態をつく。
「お金がなかったって。現金がなかったってこと?クレジットとかスマホ決済とかしたらよかったじゃん」
「えーとねえ、現金がなくてえ。お互いスマホにそれ系のやつ入れてないし。私は基本パパといるときにしかごはん屋さん入らないし」
ここで言うパパは、本当の意味でのパパだ。
今時スマホの中にQR決済できるアプリも入れていないカップル。体がさわさわと粟立っている。私は意識を定食に戻そうとする。でもどうしても、双眸に『やん』の気配が居座る。

あいつは突然現れた。
彩音にとっては「バイト先で出会って付き合うことになった男」でも、私にとっては「知らない男」だった。最初から『やん』は、軽薄で、夢に酔っていて、誰かの体にもたれていないと生活できないような人間だった。一度ライブハウスに行ったことがあったけど、バンドを結成していて、ベースを弾いている。何度も擦り付けられ放置され、そのままカビが生えた青春漫画みたいなメンバー編成だった。そもそも、プロでもなんでもない人の演奏を、地下のような暗がりの中で陶酔して聞いている観客たちがいるだけで吐きそうだった。趣味でやっているなら、いい。そういうことなら私も、こんなに苛ついていない。私は「本気でやっていると言うくせに本気じゃない」ところが嫌いだった。口では「メジャーデビュー」とのたまうくせに、素人の私が聞いただけでもひどい演奏だとわかる。そのくせ努力している姿が見えない。メンバー全員が身勝手に演奏し、それを観客がはやし立てる。隣にいた彩音が笑顔を向けてきたとき、私は「文化祭じゃねえか」と呟いた。爆音のせいで彩音に「え?」と聞き返されたところで我に返って、結局、押し黙った。
だから、今ここでまだ彩音と向き合っている。

定食屋で流れている番組が替わった。
主婦が好きそうなフリーアナウンサーが画面に映る。ニュースが始まった。はじめに天気予報が流れ、今日の日付と曜日を示す。
それを見てまた、彩音が口を綻ばせた。

「あ、今日火曜日なんだあ。そういえば『やん』がうちに来る日だ」
「…そっか」
近頃は何を話していても、結局『やん』にたどり着いてしまう。出来の悪いすごろくと一緒に過ごしているような不快感がずっと体を襲っている。

彩音はこんな、馬鹿みたいにしゃべる子じゃなかった。頭が良くは無かったけど、ちゃんと、周りを見ながら判断していける、優しい子だった。それなのに突然現れた『やん』に持っていかれてしまった。汚い男に!
美しい透明色だった水面に、汚れたピペットで絵具を落とされてしまった。もう戻らない。

体中が粟立つ。
『やん』の存在を消してしまいたい。彩音の世界から。そしてまた、昔のように笑い合いたい。
そう心から思っているのに、それができずに平静を装っている私も大嫌いだ。それなのいん、体は絶対に本性を明かそうとはしない。
お願いだからせめて、誰も見ないでほしい。誰にも見つかりませんように。そう祈りながら、笑って過ごした。

おわり

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