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可能なるコモンウェルス

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主権者の一人一人が、独立・自立した権力主体=コモンウェルスであることは可能なのか、どうすれば可能となるのか。法の支配・デモクラシー・社会契約、イソノミア・タウンシップ・評議会、イ…
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記事一覧

可能なるコモンウェルス〈1〉

 近代国民国家の民主主義とは、「国民・人民主権の原理」にもとづいて形成されているものだと、まずは考えることができる。他国の干渉を受けない一独立国家の主権者として、国民・人民はその「主権機能=権力装置としての国家」と一体化することにより、当の国家のその「内部」においては、彼らが「国民として一体化している」限りで、「一体的な主権者」の立場から、その国家の全権能を独占的に行使することができるのだ、という

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可能なるコモンウェルス〈2〉

 国民・人民主権の原理にもとづく、その「主権国家」とは、言うまでもなくいかなる他国からの一方的な干渉をも一切受けない限りで、「その国家の内部」においてはその主権者が、独占的かつ完全な主権を有するものとなる。ゆえに「国家は何よりもまず、他の国家に対して国家として存在するものである」(※1)と考えることもできるわけだが、だとするならばその国家の内部において完全な主権を有する者=主権者は、逆に言うと「他

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可能なるコモンウェルス〈3〉

 主権国家において、「国家」とはまさしく主権者の存在を意味するものであるというように、一般には考えられているとすれば、主権者とはすなわち「国家そのもの」であるというように断言することもまた、いささかも憚られることではないだろう。そこから鑑みるに、「絶対主義王権国家において、国家の存在は明白」(※1)だったというのは、まさにその「主権者の存在が明白だった」ということに他ならない。そこで要するに、絶対

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可能なるコモンウェルス〈4〉

 たとえばもしもある国家で、「ある特定の、個別的な主権者が死んでしまった」とする。それと同時に、その国家は主権を喪失することとなるのだとしたら、どうだろうか?そのような国家は、はたして「国家と言いうるもの」なのだろうか。
 少なくともその国家は、「主権国家ではありえない」というのは明白なことだろう。ゆえに国家は、他国からの一切の干渉を受けない「主権国家」として自らを成立させ続けるためならば、とにも

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可能なるコモンウェルス〈5〉

 人民主権の考え方においてはあたかもそれが当然であるかのように、人民は国家に先行して存在しており、「まるで人民(people)が王政から主権を取り返したかのように思われて」(※1)いる。だがしかし、実際にはそれとは全く逆な話なのであって、そもそも「人民は、まさに絶対的主権者の臣下として形成された」(※2)ものなのであった。
 絶対主義王権国家という政治体は、「その内部に、それを相対化するような権力

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可能なるコモンウェルス〈6〉

 国家は何よりまず他の国家に対して国家なのであり、主権者はその国家においてただ一人である。その前提の下、他国との関係においては国民として一体化し、あたかも「一人の人間」であるかのように振る舞う一方で、我が身の個別的な生存と利害を何よりも優先させ、己れに関わり合うあらゆる事柄について抜け目なく算段して余念のない、「国民=人民」なるものの二面性。ルソーはそのような、人民=国民の二面性が見せる裏腹な欲望

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可能なるコモンウェルス〈7〉

 国や社会などといったものが考えられているとき、人は何よりもまずそこに「集団」を見出している。一定の人間集団の存在を念頭に置き、かつそれを前提とした上で、その前提に条件づけられたものとして自らの関わり合う国や社会を構想することについて人は何も疑いを持たないし、この前提をしばしば「他の人々」に強いたりもする。
 「権力が発生する上で、欠くことのできない唯一の物質的要因は人々の共生である」(※1)とア

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可能なるコモンウェルス〈8〉

 国家は何よりもまず、「一定の領域内部において共生する人々の結合体」として捉え出される、というのが一般的な通念であろう。そのように、共生する人間集団としての「国家なるもの」に関連づけて、集団的な人間結合体の成員間における、一定の「結びつきの強固さ」を、より具体的に喚起する形容として、あるいはその成員である限りは、けっして容易に離反することができないような一定の「足かせ」として、「家族」という一語が

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可能なるコモンウェルス〈9〉

 アレントの考えによれば、権力の発生には「他者との共生」が不可欠の条件になるのだが、しかし実のところこのような「他者」とは、けっして互いに「一体化することができない」という意味においても「他者」なのである。
 そのような、けっして一体化しえない「他者」との共生は、必ずしもそこで人間同士互いに「集団となること」を要求しないし、むしろそれは不可能なことであるという、一種の逆説を孕んで成り立っている。そ

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可能なるコモンウェルス〈10〉

 支配者も被支配者も同時に従うような、「一定の共同性」を有した規範の下、一定に構造化され制度化された関係性において、しかしこれもまたある一定の仕方で構造化され制度化された「関係の絶対性」が、一方を支配者に、また一方を被支配者として、それぞれを「一方的に」振り分けておいてはそれを釘止めにし、その関係性を絶対化している。その振り分けに、はたして一体どんな根拠と仕掛けがあるものなのかはともかくとして、ま

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可能なるコモンウェルス〈11〉

 いかに「絶対的な力と威厳」による支配の下にあったとしても、その被支配者たる人民はけっして、ただ黙って支配されているばかりであったわけではなかったのだというように、アレントはその心理を分析している。むしろ「誰かから支配されながら」も人々は、その一方においては「誰が自分たちを支配してはならないかということ」(※1)について抜け目なく敏感に嗅ぎ分けていたものなのであり、そしてそのような仕方で実態をあぶ

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可能なるコモンウェルス〈12〉

 「被支配者」の立場として人民が、いざ国家なるものと関わろうとするときにはいつでも、「支配者=主権者=絶対君主が独占的に有する国家の、その表象を代表し、その権能執行を代行する機関である政府」が、「国家そのものの代わり」として彼らの眼前に立ちはだかっていたものであった。人民は何をおいてもまずはその、政府という存在と相対するものでなければならなかったわけである。
 逆の見方をすれば、何者かが「国家およ

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可能なるコモンウェルス〈13〉

 国民・人民主権の考えにおいては、もちろんその独占的な権力をもって「他人を自分の意志に従わせている」のは主権者である人民・国民だということになる。しかし一方では「その権力に従っている」のもまた、当の人民・国民自身なのだということになる。そのように、「自分で自分に従っているのだから、人民・国民である限り誰も異存はなかろう」というのが、人民・国民主権における「共同規範」となっているわけである。
 自分

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可能なるコモンウェルス〈14〉

 絶対王権国家を統治する君主なるものとは、その地位は「神によって」授けられたものであって、手中におさめる「世俗的な支配権力」は神と同様に全能なのであり、胸中にある意志は「宇宙の立法者が抱く意志として、世界を統べる法そのものとなる」のだ、といったように、その存在そのものがすっかり神と重ね合わせにイメージされており、その「実存」としても完全に神と一体化されたものとして、すなわち「永遠の生命を有する者」

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