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『トーマの心臓』 から 『一度きりの大泉の話』を貫く 本質

書評:萩尾望都『トーマの心臓』(小学館)

萩尾望都の長編エッセイ『一度きりの大泉の話』が、2021年4月に刊行されて以来、少女マンガ界隈は騒然としている。

萩尾望都や竹宮惠子といった少女マンガ界の「レジェンド」級の作家たちが、若い頃に東京都練馬区の大泉のアパートに集まって、今日の少女マンガの可能性を開く創作実験がなされた事実を、近年、手塚治虫を中心としたマンガ界の伝説「トキワ荘」になぞらえて、高く評価しようとする動きが出てきたのだが、そうした動きを牽制するために、萩尾望都の放ったのが、この『一度きりの大泉の話』だった。

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『一度きりの大泉の話』で語られているのは、要は「大泉サロン」と呼ばれたものの「現実」は、人々が「夢想」する「若き天才たちの梁山泊」物語のような、単純な「綺麗事」ではなかったということであり、少なくとも萩尾個人にとっては「終生消えない傷」を残した「イヤな思い出」の場所であり時間であったから、それを「美化して弄ぶ」ようなことはしないでくれ、という趣旨のものであった。

そして、そこで初めて明かされる「イヤな思い出」とは、萩尾が、竹宮惠子と増田法恵が考えていた「少年愛マンガ」のアイデアをパクって『トーマの心臓』(の初期エピソード)を描いたと竹宮らが疑い、萩尾を呼び出して難詰した後、ハッキリとした決着をつけないまま、萩尾に「距離を取ろう」と提案し、呼び出しと難詰についても「なかったことにしてくれ」と申し出た、という一連の「事件」である。

もちろん、萩尾にとっては、一方的に心外な嫌疑をかけられたのだし、それまで友達だと信じていた人たちからのそれが、彼女を深く傷つけたということなのだが、だからこそ萩尾の方も、この問題と向き合うことを避けて、以降、自身の「心」に封印をして、今日に至ったと言うのである。

しかし、近年にわかに盛り上がってきた「大泉サロンをテレビドラマに」などという軽薄かつ執拗な動きに、もはや黙っていることは不可能だと覚悟して、萩尾は「一度きり、大泉の真相を語ろう」としたのが『一度きりの大泉の話』だということになる。

だが、私は「竹宮惠子と増山法恵」を完全に「悪役」扱いにした『一度きりの大泉の話』を、鵜呑みにする気にはなれなかった。同書は、あまりにも「当方には、いっさい罪はない」とする「勧善懲悪」の物語であったからだ。

無論、萩尾は同書で「私は、鈍感だった」とか「物事をはっきりさせようという勇気がなくて、逃げてしまった」というような、一見「反省」とも見える言葉を綴っているが、「第三者」である私には、これは体のよい自己正当化にしか見えなかった。要は「私は、純朴で人を信じやすく、繊細で傷つきやすい人間です。だから被害者になりました」と、自分で言っているようなものであったのだ。

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そんなわけで、今回はひさしぶりに『トーマの心臓』を再読してみた。
再読と言っても、前回読んだのは30年ほど前のことであり、しかもその時の印象は「私の趣味じゃないな」というものである。つまり、ピンと来なかったし、面白いとも感じなかった。
この作品を面白いと感じる人が少なくないであろうことは了解できたのだけれども、私の「趣味ではない」と感じられたから、その時点で萩尾望都は、私にとっては「読まなくていい作家」に位置づけられたのである。

しかし、私は必ずしも「少女マンガ」がわからない人間、というわけではない。その昔、萩尾望都を読んだ頃、同時に、竹宮惠子の『風と木の詩』、木原敏江『摩利と新吾』、山岸涼子『日出処の天子』などの作品を読んで、いずれも面白かったからである。

しかしまた、だからこそ「なぜ萩尾望都だけは、楽しめなかったのだろう。どこが合わなかったのか?」という疑問の小骨が、喉元に突き刺さったままになってもいた。
だから、NHKで『100分de名著スペシャル 100分de萩尾望都』(2021年1月放映)をたまたま視たのをきっかけに、萩尾望都に再チャレンジしてみようと考え、同番組で紹介されていた、未読の短編集『半神』、『バルバラ異界』、そして昔読んだ萩尾の代表作である『トーマの心臓』を購入して、まずは『半神』を読んだ段階で、同書のAmazonレビュー「保護被膜の生んだ〈乖離感〉:私的・萩尾望都論」(2021年1月11日)を書いたのである。

その後、他の本に浮気して『バルバラ異界』と『トーマの心臓』を読まないうちに、『一度きりの大泉の話』が刊行され、なんの予感もなく同書を読んだところ、前記のとおり「これは酷い」と思い、同書のレビューとして「〈残酷な神〉が支配する…」(2021年4月23日)を書き、さらに翌日、補論「汝、頑ななる者よ」を追加した。

これには、たいへんな反響があった。要は、明敏な人なら気づいてはいても「天下の萩尾望都について、こんな身も蓋もないことを指摘することはできない」といった厳しい評価を、私が与えていたからであろう。
同論考の要旨とは「萩尾望都も人間であるから、間違うこともある。竹宮らへの恨みもわからないではないが、もう許すべきだ」という、「対等な人間」としての助言だったのだ。
一一だが、無論こうした私の「(身も蓋もない)常識的な意見」には、肯定的評価と同時に、「憎しみ」の刃を向けられることにもなった。要は「(被害者である)モー様を傷つけるものだ」という(セカンドレイプ批判的な)批判である。

そしてその結果、突き放して言うなら、萩尾望都の「信者」というのは「繊細さ」と「優しさ」をアピールする人が少なくないと、私には十二分に確認できたのである。

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さて、やっと『トーマの心臓』である。
ほとんど、内容を忘れていたが、再読してみて、本書にはすでに、おおよそ半世紀後に刊行される『一度きりの大泉の話』の基本構造が、しっかりと畳み込まれているのが確認できた。
どういうことかと言うと、本作『トーマの心臓』は「呪いと愛による再生の物語」であり、これは萩尾望都という人が「憧れた」物語だろうということである。

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本書の構造を簡単に説明すると、本作は、心を閉ざした少年ユーリ(ユリスモール・バイハン)をめぐる「献身的な愛の物語」である。
「ある理由」で、ユーリは他者からの愛を拒絶して、自身の中に立て籠もろうとする。しかし、そのせいで、彼を愛した少年トーマ・ヴェルナーは自殺してしまう。それでも、トーマの再来かと思われるような少年エーリク・フリューリンクが転校してきて、ユーリの態度に困惑しながらも、だんだんユーリに惹かれていくし、トーマの同室の友人であるオスカー・ライザーも、内心は明かさなかったものの、ユーリを深く愛して、ユーリの心の傷が癒えるのを見守っていた。

つまり、ユーリは、他人の愛を拒絶しながらも、周囲の皆から「愛される存在」であった。
これは無論、彼が元々は、とても素敵な少年であったからだけれども、このモテかたは、やはり「少女マンガ」の主人公(の一人)だったからだと言えるだろう。そして、今回再読して、はっきりわかったのは、ユーリというのは、作者である萩尾望都の「理想化された自己像」だということである。

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『トーマの心臓』という作品を読んで、読者はどこに惹かれるのだろうか?
それは多分、自身をユーリに重ねられる人が、この作品に惹かれるのである。つまり、自身は心を閉ざしていても、先方から、その心の傷を察してくれて、積極的かつ献身的に愛してくれる人が現れる、という夢のような展開である。

よく萩尾望都の作品は「少女マンガを超えた」とか「文学の域に達した」などと言われるが、上の「自身は心を閉ざしていても、先方から、その心の傷を察してくれて、積極的かつ献身的に愛してくれる人が現れる、という夢のような展開」というのは、いかにも「少女マンガ」的に御都合主義的なものであって、これは「コンプレックスを持つ平凡な女の子の前に、いきなりイケメンの転校生があらわれ、なぜか彼女を愛してくれる」という展開と、構造的には、まったく同じだと言えよう。
読者は「本来ならモテないはずの主人公」に自己投影し、その主人公が「なぜか」やたらに愛される、恋愛物語に酔うのである。

しかし、こうした「遠慮のない分析評価」というのは、「文学」の世界では「当たり前」のことでも、「少女マンガ」の世界ではご法度だ。なにしろ読者は、「批評」といったものに縁のない「若いエンタメ読者」なのだから、こうした「遠慮のない分析評価」には「耐性」がなく、ただ「傷つけられた」と騒ぐのが関の山だからである。

しかしながら私は、そういう読者を喜ばせるために「評論」を書いているのではない。そういうのは、「萩尾望都ファン」や「業界ライター」が、頼まれなくても書くだろうから、私は私にしか書けないものを書くし、これはこれで私の「マンガ」への愛のかたちなのである。

話を『トーマの心臓』に戻そう。
この物語を牽引する「謎」とは、主に次の二つである。

(1)なぜトーマは自殺したのか
(2)ユーリは、どのようなことから、心に深い傷を負ったのか

物語の展開としては(1)(2)に順になるが、物語中の時制からいえば(2)(1)の順になる。つまり、ユーリが負った「心の傷」を癒すために、トーマは「自殺」したのである。

ここで、種明かし(ネタバラシ)をして説明すれば、ユーリが心に傷を負ったのは、敬虔なクリスチャンだった彼には、ちょっと「悪」の匂いのする上級生サイフリート・ガストに惹かれる部分もあって、うっかりその魔手に落ちてしまい、サイフリートに鞭打たれながらとはいえ「神さまよりも、僕(サイフリート)を信じると言え、愛していると言え」と迫られて、その言葉を口にしてしまったためである。
つまり、ユーリはこのことで「神を裏切った」「僕は、悪魔の誘惑の手に落ちた、堕落した人間だ」「天使の翼を失った」と考えるようになった。だから「僕は、人から愛される価値のない人間だし、愛されてはならないのだ」と、心を閉ざすようになったのである。

そして、そんなユーリをトーマは愛し、ユーリをその「信仰的葛藤」から解放するために、あえてキリスト教では許されない「自殺」をしたのである。「あなた(ユーリ)が神を裏切ったと苦しむのなら、僕も神を裏切ろう。そして、僕が失った翼をあなたに与えよう」と。

だが、トーマの自殺の意図は、ユーリに正しく伝わることはなく、ただユーリは「自分のせいでトーマを死なせてしまった。僕を愛してくれ、本当は僕も愛していたトーマを死なせてしまった」という罪悪感にとらわれて、さらに心を閉ざすことになったのだが、そこに現れたのが、トーマに生き写しの転校生エーリクであり、だからこそユーリはエーリクを避け、エーリクは逆にそのことでユーリに惹かれていくことになり、最後は、トーマやエーリク、オスカーらの愛によって、ユーリはふたたび「神の愛=神は罪人を許し、その罪を我が身で贖う」を見出して再生するのである。

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私は、このような「キリスト教思想」の部分が、萩尾望都ファンの少女たちに、正しく伝わったとは思わない。私自身、30年前に読んだ(初読)時には、キリスト教の教義のことなど知らなかったから、そのあたりは「雰囲気」だけで流していた。

しかし、キリスト教について、かなり勉強した今の目で見ると、『トーマの心臓』における「キリスト教」の扱いは、決して深いものではなく、「ユダの裏切り」だとか「自殺」問題、あるいは「罪人を許す神(イエス)」そして「贖罪論」というキリスト教的な仕掛けは、キリスト教に詳しくない読者にこそ有効に機能するものだったとわかるからだ。
つまり、「キリスト教」には「厳格な教条主義のキリスト教」と「寛容な愛の宗教としてのキリスト教」の「二面性」があり、本作を駆動するのも、まさにこの「二面性」についての、読者の「無知」なのである。

ユーリは、敬虔なクリスチャンで「聖書」を読み込み、「教義」にも詳しいかのように見える。
しかし、彼が、「厳格な教条主義のキリスト教」だけではなく、「神の愛=神は罪人を許し、その罪を我が身で贖う」を正しく理解していたならば、そもそもトーマは死なずに済んだわけで、この物語は成立しなかった。
無論、ユーリはまだ十代半ばの少年なのだから、彼の教義的無知は罪ではないのだが、『トーマの心臓』の作者が、読者に対して、ユーリの「教義的未熟さ」を、見かけ上で隠蔽していたのは事実であり、これは一種の「叙述トリック」だと言えるだろう。ユーリは「理由はよくわからないが、ともかく深く癒えない傷」を負っていると、読者がそう思うからこそ、この「切ない」物語は駆動するのである。

だが、こうした手法は、「純文学」的ではなく、「エンタメ」的なものでしかない。例えば、カトリック小説家である遠藤周作が背負った「重み」が、本作にはない。

遠藤が「転教者(転び)」の問題を扱った『沈黙』で、踏み絵に描かれたイエスに「踏みなさい」と語らせたことは、ほとんど「背教」を覚悟しての「厳格な教条主義のキリスト教」に対する「神の再解釈」であり、ほとんど「異端の説」を唱えるに等しい「重み」が、そこには込められていたのである。
だが、『トーマの心臓』には、そうした「重み」がない。それは、萩尾望都が遠藤のような筋金入りのカトリックではなく、初めから「厳格な教条主義のキリスト教」と「寛容な愛の宗教としてのキリスト教」の「二面性」という「切り札」を、隠し持っていたからに他ならないのだ。

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『トーマの心臓』を、安易に「文学的だ」などと言ってはいけない理由は、他にもある。
それは、「悪役」サイフリートの扱いだ。

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前述のとおり、『トーマの心臓』を無条件に楽しめる読者は、自身を「愛される人・ユーリ」に重ね、時に「無償の愛を捧げるトーマやエーリクやオスカー」に重ねて、自身が「繊細」で「思いやり」がある「愛」の人だと感じていることだろう。

だが、それは違う。(傷ついて後の心を閉ざした)ユーリが「鼻持ちならない優等生」にしか見えないのは、作者が「そのように描いているから」であって、読者が「繊細」で「思いやり」がある「愛」の人だからではない。

その証拠に、読者は、ユーリには心を閉ざすに値する「正当な理由」があると頭から考え、その線での「真相解明」を毛ほども疑わない反面、サイフリートが「悪魔主義の嫌なやつ」という「典型的な悪役」になった(育った)理由など、一顧だにしなかったはずである。
放校になって、読者の目から遠ざけられたサイフリート他4人の「不良」たちは、「憎むべき存在」であり「排除すべき存在」であって、萩尾望都ファンの「愛の対象」ではありえなかったのだ。彼らの「過去」は問題とされず、彼らは「一方的に、悪魔化されて、排除された」だけだったのである(そしてこの「図式」は、『一度きりの大泉の話』でも、そのまま繰り返されている)。

だが「文学」は違う。「文学」は、こうした単純な「善悪二元論」や、「愛される(感情移入しやすい)主人公」と「憎まれる(感情移入しなくていい)敵役」といった、安易な「二分法」を採用したりはしない。
「文学」は、一人の人間の中に「善と悪とが共存する」ものとして捉え、その上で「自身の中にもある悪」と、どう闘うか、あるいは、どう折り合いをつけるべきか、とリアルに問うものなのである。
だが、『トーマの心臓』は、そういう「重荷」を引き受けてはおらず、ひたすら読者を「私も愛の人」だと酔わせるだけのエンターティンメントなのだ。

もちろん『トーマの心臓』という作品は、「マンガにしては」繊細な心理を描いて、優れた作品だと言えるだろう。
しかし、だからと言って、ろくに「文学作品」も読んでいないような読者が、「文学的な作品」だとか「文学を超えた」などと評するのは、身内での愚かな盛り上がり(自己満足)でしかない。

もちろん、「文学関係者」にも、萩尾望都の熱心なファンが大勢いることは承知しているが、それならば、彼らは、私のこのような批判を乗り越えるような、文学ファンをも納得させる「萩尾望都論」を書くべきであろう。
言い換えれば、現役の「神様作家」を当たり前に持ち上げるだけなら、評論家あるいは文筆家という肩書きを恥じるべきである。

萩尾望都が死んでから、初めて「客観的な評価」を語るような評論家は、萩尾望都ファンの名に値しないし、もとより素人と大差のない「紋切り型の褒め」を語るしか能のないような「提灯持ち評論家」は、「少女マンガ」を腐らせ、作家を腐らせる存在でしかない。所詮は「マモンという悪魔に、魂を売った人間」なのだ。

はたして、私のこの批判は、エーリク的に過ぎようか?

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初出:2021年5月29日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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