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ゴダールの本質を、わかりやすく説明しよう。 : ジャン=リュック・ゴダール論

ついに、ジャン=リュック・ゴダールという映画作家の本質が、理解できた。そう確信することができたのだ。
だから本稿では、それをわかりやすく説明しよう。これほど、わかりやすく説明も滅多にあるものではないと、そう自負さえしている。

私が、ゴダールの作品を初めて見たのは、ゴダールが亡くなったその年である一昨年、2022年の10月のことであった。追悼上映として、ゴダールの代表作である『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』が上映されたのだ。

その際、私は、ゴダールに関する予備知識を、ほとんど持っていなかった。知っていたのは「映画マニアの間で、カリスマ的な人気のある映画作家」だということだけだった。だから、どんな作品なのかはまったく知らなかったが、「この機会に見てみるか」というごく軽い気持ちで見てみたのだ。
そしてその結果、「何だ、これは?」ということになった。この両作品で、ゴダールが「何をしたかったのか」が、さっぱりわからなかったのである。

しかし、内容的には決して難しいことが語られているわけではない。むしろ問題は「内容というほどの内容がない」「テーマというほどのテーマがない」ということだったのだ。

それがあれば、「文学書」や「哲学書」などをそれなりに読んできた私だから、それなりにわかる部分があるはずなのだが、ゴダールの作品には、そうしたものが無いから、内容的な側面では、理解のしようがない。

しかし、私は、「わからないから、すごいのだろう」などと思ってしまうような「宗教信者」ほどには頭が悪くはなかったので、このゴダールの「わからなさの謎」を解かないではいられなくなってしまった。

それで、それ以降今日までの2年弱、ゴダールの作品は無論、ゴダールという作家との関連が無視できない、1950年台から60年台にかけての、フランス映画界における「ヌーヴェル・ヴァーグ」ムーブメント関連の映画作家の作品も見たし、彼らが批判した戦前フランスの映画作家の作品も見たし、ゴダールをはじめとして「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちが、もともとは映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』に集った若き映画評論家であり、要は、映画オタクたちだったということを知ったので、彼らを理解するためには、モノクロ・サイレント時代の作品から、1950年当時までの古い映画を、ヨーロッパのものだけではなく、古いハリウッドのものまで、ひと通りは知らないといけないだろうとそう考えて、ほとんど切りがないほどの膨大な作品の中から、特に重要と思われるものから順に鑑賞し始めた。
そしてさらに、私の強みでもある、活字情報についても摂取していった。そうした、活字情報として、最初に注目したのは、日本におけるゴダールの強力な擁護者と目された、映画評論家の蓮實重彦であった。

このようにして、この2年弱、可能なかぎり、ゴダールおよびゴダール周辺や関連の映画や書物に触れ、そのたびに、ここ「note」にレビューをアップしてきた。

当初は「映画の門外漢」として、手札である「文学」や「アニメ」などの知識を生かして、なんとかゴダールに爪を立てようと足掻いた。

私のこうしたレビューを読んだ、映画マニアたちは、きっと内心では「映画の素人が、何を頓珍漢なことを書いているんだ」と鼻で笑っていたことだろう。そのくらいの心理は、「文学」や「心理学」などに親しんできた私には容易に推察できていたのだ。
だが、私としては、そんなつまらないところで見栄を張って、人の口真似で誤魔化すのではなく、あくまで「自分の頭で考える」ということを、自身に強いてきた。また、考えるために一番良いのは、書くことである。書けば、理解が深まるし、知識も定着する。だから、私はこれまでのレビューで、あれこれの情報を摂取しつつ、わからないながらも、いろんな角度から、ゴダールという高い峰に挑んできたのである。

そして、そのように努力を重ねてきても、ほんの数時間前までは、「ゴダールがわからない」という状態が続いていた。

昨夜、ゴダールの『アルファヴィル』を初めて鑑賞した時も、もちろんそれでゴダールがわかるようになったわけではない。
『アルファヴィル』がどういうお話の作品で、どんなことが語られているのかという、よくある「内容紹介と感想」程度のことなら、容易に理解できた。
だが、ゴダールが「この作品で、何をしたかったのか」、その「核心」となる部分が「理解できた」とは思えなかった。

この作品が「SFハードボイルドとも呼ぶべき作品」であるとか「東西冷戦時代のソ連をモデルにして、人間的な感情が奪われて非人間化されている世界を描くことで、ある種の社会批判やイデオロギー批判をしている」といった程度のことは、容易に理解できた。一一だが、そんなものでは、『アルファヴィル』は、というよりも「ゴダール作品」を理解したことにはならない。ただ、外形をなぞっただけにすぎないのだ。

「SFハードボイルドとも呼ぶべき作品」であるとか「東西冷戦時代のソ連をモデルにして、人間な感情が奪われて非人間化されている世界を描くことで、ある種の社会批判やイデオロギー批判をしている」などといった程度の作品ならば、小説の世界には、それこそ掃いて捨てるほど存在しているし、そういう作品と比較した場合ですら、『アルファヴィル』は、それに勝る内容すら持っていない「凡作」、ということにしかならない。

つまり、「物語性やテーマ性」といったことで言えば、『アルファヴィル』は、ゴダール作品の「常」で、大した内容がなく、その点では「凡作」としか評価にしようのない作品だったのだ。

では、それ以外に「さすがはゴダール」だというほどの天才性を感じさせる部分があるのかというと、映画マニアは、まず間違いなく、その「映像センス」の素晴らしさと、「映画の型にハマらない、芸術的先鋭さ」といったことを挙げるだろう。

確かにこれは「間違いではない」。
だが、「映像センスが素晴らしい」とか「映画の型にハマらない、芸術的先鋭さが並外れている」と言って褒めたところで、そんなものは、「何も語っていない」に等しい。

では、「ゴダールのすごさを理解して、それについて語る」とはどういうことなのかと言えば、それは「ゴダールの映像センスが素晴らしさとは、具体的に何であり、どういう性質のものなのか」「ゴダールの、映画の型にハマらない芸術的先鋭さとは、具体的にどういうことで、どういう性質のものなのか」と、そこまで語ることが必要なのだ。

要は、「あれがすごい、これがすごい」と言うだけなら、幼稚園児でも言える。
それも一種の「理解表明」ではあるけれども、しかし、それは「中身のない感心表明」でしかないのだ。「すごい」と感じ、そう思っているのは事実なのだが、その「すごさ」が何なのかということは、てんでわかっていない、ということなのである。

で、私が「わからない」とか「わかりたい」と言う場合のそれは、そういうレベルの話ではない。
端的に言えば、「ゴダールのすごさを、論理的に説明しうる程度まで理解して初めて、わかったと言える」という、そういう「理解レベル」の話なのである。

そして、それが、半日前の今朝までは、私にも無かった。「わかった」と言い切れるほどの、ゴダール理解の「具体的なビジョン」を、まだ持ってはいなかったのだ。

昨夜『アルファヴィル』を見終えた段階でも、それは無かったし、今朝起きて『アルファヴィル』のレビューを「書かなくてはな」と思った時にも無かった。

まだ、「ゴダールを理解した」という思いが無かったから、あくまでも書けることは『アルファヴィル』の外形をなぞった上で、そこからはみ出す「違和感」について、少しでも語ることくらいしか出来なかったはずなのだ。その程度の見通ししか、持ってはいなかったのである。

それで、何となく、『アルファヴィル』に関して、ネット検索していると、『アルファヴィル』を論じた、次のような「映画批評サイト」を見つけた。

この『アルファヴィル』評の出だしはこうだ。

『◆ゴダールのSF作品『アルファヴィル』を観た

オレはSFが好きである。オレにとって小説といえばSF小説の事だし、映画でもまず好きなのはSFジャンルだ。オレの性格もSFだと言っていい。セコくて(S)フヌけた(F)野郎なのである。まあそんなことはどうでもいい。時間も空間も超越し人や社会が意味と価値観を変容させこれまで誰も見たことの無い生命が息づきこれまで誰も見たことが無い世界が広がる、そんな、想像力の翼を限界まではためかせた物語が好きなのである。

そんなSF好きのオレだが、フランス映画界の鬼才ジャン=リュック・ゴダールのSF作品『アルファヴィル』はまだ観ていなかった。だってなんたってゴダールだぜ。「めんどくせえなあ……」と思う訳である。「訳分かねんだろうなあ……」と思う訳なんである。なにしろオレにはゴダールがよく分からない。シネフィルなる方々になぜもてはやされるのかが分からない。「ここがこう凄い」と説明されてもそれがどう凄いのかすら分からない。あまりにも分からなさ過ぎて自分の知性とか理解力とか知能指数まで疑ってしまい「へえへえ分かんなくてすいませんねえ」などと卑屈に顔を歪めてしまう始末だ。

とはいえSF好きのオレとしては映画『アルファヴィル』を無視し続けるわけにもいかない。いかに面倒臭かろうがつまんなさそうだろうが相手が鬼門のゴダールだろうがSFである以上これは観なければいけないのである。それがオレの務めであり宿命でありそして一つの試練なのである。しかもつい最近2000円代でブルーレイが発売され手に入り易くなってしまったのである。もうこれはSFの神がオレに「グダグダ言ってないでいい加減観ろや」と言っているのに等しい。という訳でオレは覚悟を決めわざわざブルーレイを購入してゴダール映画『アルファヴィル』に挑戦することにしたのだ。』

まったく正直な人だと感心して、共感した。
しかし、このブログ主「フモ」氏が、ここまで正直になれるのは、間違いなく、長らく「SF小説」を読んできて、SF理解については人後に落ちないという確固たる自信と自負があったからであろう。
そこいらの、知ったかぶりだけの、にわかSFファンになど遅れをとらないという自信があったからこそ『オレの性格もSFだと言っていい。セコくて(S)フヌけた(F)野郎なのである。』などと、わざわざ自分を貶して見せることもできたのだ。要は「俺の本領は、レビューを読んでくれれば、自ずとわかるよ」ということだったのである。
一一当然、「フモ」氏は、こと「SF」理解に関してなら、ゴダールなど恐るるに足りないと思っていたことだろう。それも、このレビューを読めばわかる。次の部分がそれだ。

『『アルファヴィル』はいわば「スパイSF」とでもいったような物語である。舞台は銀河系星雲都市アルファヴィル。ある日ここに秘密諜報員レミー・コーションが潜入する。彼の任務は行方不明の仲間を捜索すること、亡命科学者ブラウンを救出ないし抹殺すること。そんなレミーがアルファヴィルで目にしたのは人工知能アルファ60に支配され人間的感情を剥奪された住民たちの姿だった。

あろうことか、ある意味分かり易いSF映画であり、分かり易いゴダール作品だった。「機械に支配され感情を失った人間」といったSFテーマは特に珍しいものではなく、「はいはい文明批判文明批判」と言ってしまえばそれまでの作品ではある。しかしだ。そういった物語性はあくまで皮相的なものであり、監督自身が描きたかったものが別にあるのであろうことは、映画の「見せ方」を注視するならおのずと伝わってくる。

まず面白いのは、この作品ではSF的セットやSF的ガジェットを一切使っていない、ということだ。「銀河系星雲都市アルファヴィル」とは言いつつ、単にパリの街でロケーションしているだけである。そもそもレミーが「外惑星」からやってきた方法というのは、その辺のよくある自動車で道路を走って、である。宇宙船でも転送装置でもなんでもない。にもかかわらず、「外惑星からやってきた」と言われるならそのように認識してしまうし、同様に、単なるパリの街も「銀河系星雲都市アルファヴィル」と言われるならそのような未来架空都市のように認識させられてしまうのである。

これは、想像力をちょっと刺激することにより「”見えているもの”を”見えているものとは別のもの”に思わせてしまう」という事なのだろう。例えばタルコフスキー『ストーカー』では単なる野原や廃坑を、「そこに得体の知れない力場の働く危険地帯」と思わせる事により、異常な世界の緊張感を生み出せさていた。ジョン・セイルズ監督によるインディー作品『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』では、一人の普通の黒人を「宇宙人」、彼を追う白人を「宇宙ハンター」と呼称させることで、殆どSFセットを使っていないにもかかわらず堂々たるSF作品として完成させていた。

言うなればこれは、子供がよくやる「見とり遊び」ということだ。ちょっとした想像力で、公園の遊具が敵性宇宙人の放ったトラップに成り得るし、空き地の物置は科学の粋を集めたウルトラ秘密基地に成り得る。映画『アルファヴィル』にはこういった「想像力の遊び」がある。』

つまり、「フモ」氏は、『アルファヴィル』が「SF映画」として「内容的には凡庸だ」と評価した上で、しかし、その「映像的な部分でのユニークさ」を褒めているのである。それが『想像力の遊び』という言葉に集約されているのだ。
そして、そのあとは、オーソドックスな「映画解説」に終始している、とも言えるだろう。

したがって、このレビューでの「フモ」氏の戦略は、じつに手堅いものだ。
要は、「中身」として「新しいもの」も「目を見張るほどのもの」も無いから、「映像表現」の側面で、あまり指摘されていないだろう「ポイント」をひとつ指摘して、このレビューに独自性を持たせた、ということなのだ。

だが、「フモ」氏自身、『アルファヴィル』をこのように「解説」したからといって、それで「ゴダールが理解できた」とは思っていないだろう。
あくまでも、『アルファヴィル』については「こういうユニークな映像的特性があるよ」と指摘しただけで、だから「ゴダールは、こういう作家だ。こういう作家だとわかった」とまでは言えないはずなのだ。

で、私は、「フモ」氏のこの『アルファヴィル』評を読み、これまで蓄積してきたゴダールの特性に関する知識のあれこれを、頭の中で捻くっているうちに、突然「わかった」のだ。
「ああ、そういうことだったのか」と、ゴダールの「作家性」というものが、完全に理解できた。なぜ、ゴダールが「あんな作品ばかり作るのか」が、理解できたのである。

 ○ ○ ○

さて、ここまでの「経緯説明」が十分に長くなったので、もったいぶらずに、結論を先に書いておこう。

ゴダールの本質は、「コラージュ作家」である。

まあ、この程度のことなら、すでに多くの人に指摘されてきただろうが、問題は、普通の意味での「コラージュ作家」、つまり「紙の上に、あちこちから無関係な切り抜きを持ってきて、それを貼りつけていって、まったく新しい作品を創造する」という、そんな「絵画の一形式としてのコラージュ作品」と、ゴダールの「コラージュ」作品とは、どう違うのか、そこが問題なのだ。

で、その違いとは、例えば、マックス・エルンストでも岡上淑子でもいいけれど、要は、こうした「美術絵画」の世界におけるコラージュとは、普通は「二次元の紙」上に「二次元の切り抜き」を配することで、「二次元の作品」を作る。また、これを多少は発展させるかたちで、「二次元の紙」の上に「三次元のパーツ」を配することで「三次元的なコラージュ作品」に仕上げることもある。これが、通常の「コラージュ」作品である。

だが、ジャン=リュック・ゴダールの「コラージュ」がこれらと違うのは、それが「二次元の紙」の上にコラージュされるのではなく、「三次元のフィルム」の上に、「切り抜きとしての引用パーツ」が配される点なのだ。

「三次元のフィルム」という表現に対し、「フィルムも二次元ではないか」と思った方もいるだろうが、そうではない。
ここでの「フィルム」とは「映画フィルム」のことであり、要は「時間的変移を伴った平面(二次元)としての、三次元」といういう意味なのである。
つまり「映画フィルム」は、「立体」という意味での「三次元」ではないけれども、「二次元の映像に、時間的変移が加わったもの」としての「三次元」なのだ。

つまり、「通常のコラージュ作品」、マックス・エルンストや岡上淑子などに代表される「コラージュ作品」は、基本「二次元」であるから、基本的には「時間的変移」という性格を持っていない。つまり、「時間性を持たない作品」だ。
それは「立体」作品としての「三次元コラージュ作品」にしたところで同じことだ。これらの作品は、基本的に「時間の推移によって、作品がその形態を変化させてゆき、その変移の総体が作品である」といったような作品ではない。
例えば、作品の一部に「モビール」のような「動くパーツ」を用いれば、一応のところその作品は「時間的変移性」を持つことも出来るのだが、その変移は、極めて限定的なものであり、見ている間に「形がどんどん変わっていく」というようなものではない。その意味で、「時間性」を与えたとしても、それは所詮「ごく限られた範囲内で、ループ的な時間的変移を見せるだけ」といったものに止まらざるを得ないのだ。

だが、「映画フィルム」の上に「先行映画の擬似断片」としての「オマージュ映像」や、「文学作品の断片」としての「引用的朗読(音声)」を入れるといったことが、ゴダールの「三次元的コラージュ作品としての映画」の独自性なのである。

では、ゴダールは、そんな「三次元的コラージュ作品としての映画」において、何をしたいのかといえば、それは、マックス・エルンストや岡上淑子などの「二次元のコラージュ作家」と同じで、「もともと無関係なものを、バラバラに切り出してきて、それを台紙(としてのフィルム)の上に配置していくことで、思いもかけない、新しい美や意味を創造する」ということなのだ。要は、

『解剖台の上でミシンとこうもり傘が偶然出会ったように美しい』

ロートレアモン伯爵マルドロールの歌』より)

という、そんな「奇跡的な美=デペイズマン的な美」の創出を意図したのである。

マン・レイの「蝙蝠傘とミシン」」

つまり、ゴダールは、自分の頭の中にあるものを取り出して「表現」をしたいわけではなく、いくら考えても出てこないようなものを、自分の中になど無いものを、「無関係なものの引用的な組み合わせ」の中で、一種の「パプニング」的に生み出そうとしているのである。
だから、実のところ、ゴダール自身にも「作ってみなければ、何が出来るか(出てくるか)はわかっていない」のであり、しかし、だからこそ、それを生み出すための「即興演出」なのである。

だから、私たちが、ゴダールの作品を見て「ゴダールは、何を考え、何を狙って、この作品を作ったのだろうか?」と、いくら頭を捻ってみても、「正解」など見出せないのは、理の当然なのだ。
なぜなら、作ったゴダール当人が、「正解」などという「つまらないもの」など、最初から最後まで、持ってはいなかったからである。

では、ゴダール作品における「物語性・筋書き・ストーリー」とは何なのかと言えば、それは「時間性を帯びた三次元的な台紙であるフィルム」に「相互に無関係な切り抜きパーツ」を並べていく場合、完全にイレギュラーにそれを配していく(並べていく)と、完全に「実験的な前衛映画」になってしまって、ゴダールが好きだった「一定の物語的秩序を備えた映画」からは遠ざかり過ぎてしまうからであり、観客も極端に限定されてしまうことになるからだ。ゴダールは、そうしたものが作りたかったわけでもなかったというところに、ゴダール自身のジレンマもあったとも言えるだろう。

つまり、ゴダールとしては、当たり前の「劇映画」を撮りたいわけではなく、コラージュ技法による「ハプニング」的に生み出される「予測不可能な美」を持つ作品を撮りたかった。
しかし、その一方、完全に「自由」であり「何でもあり」だと、そこにはかえって「意外性」というハプニングは生まれ得ない。もともと「何でもあり」なら、何が起こっても、それはそういうものでしかなく、そこに「驚き」は生まれないからである。

したがって、ゴダールの映画が、一定の、きわめて薄い「物語性・筋書き・ストーリー」を持っているのは、通常の「劇映画」が当たり前に持っているそれらの要素から、「逸脱するために」こそ、それを備えているのである。
存在しないものからの「逸脱」は、あり得ない。その「定型」が、初めから備わっていなければ、それからの「逸脱」も不可能となり、「想定外の(ハプニング的な)美」を生み出すこともできないから、ゴダールは、それ自体には大して興味は無いけれども、一応は「物語的な大枠としての定型」を、自身の映画の中に、仕込まないわけにはいかなかったのである。

そしてだからこそ、ゴダール作品における「物語性・筋書き・ストーリー」そのものは、「陳腐」であり「出来合のもの」の域を出ないものだったのだ。
ゴダールにとっては、それ自体が大切なのではなく、それらは、作品の中で否定され、廃棄され、乗り越えられるためにこそ必要だっただけ、なのである。

『ウイークエンド』のコラージュポスター)

では、「一応はあるという程度のテーマ性」とは何か、という点も、前述の話と同じことである。やはり、じつのところゴダールは、「テーマ性」になど興味はなかったのだ。

だが、一応のものでしかないとしても「物語性・筋書き・ストーリー」というものを作品に組み込めば、「テーマ性」というものは、意図的に組み込まなくても、勝手にそこから生まれ、勝手にそこから読み取られてしまうものなのである。
ゴダールの作品においての「テーマ性」とは、その程度のものであり、ゴダールにとってもその程度のものでしかなく、その程度のものでかまわなかった、ということなのだ。

しかしながら、ここで重要なことは、ゴダール自身は、自身の作品に、殊更な「テーマ性」を込めようと思ってはいなくても、ゴダールが一人の人間である以上は、やはり、好むと好まざるとに関わらず、その時々のゴダールの「気分」は、否応なく作品に反映されてしまうのであり、その事実は、否定しようも拒絶しようもなかった、ということである。

そのわかりやすい例が、アンナ・カリーナとの熱愛と、その別れ」である。

つまり、アンナ・カリーナとの「恋」が成就して、幸せいっぱいの時期には、意図せずとも、その「気分」が作品にも「反映してしまう」し、アンナ・カリーナとの恋が破綻して落ち込んだ時期の作品には、おのずとその時の気分を反映した「暗い」作品になってしまう。

これは、ゴダールが、アンナ・カリーナとの恋がうまくいっている時には「それを描こうとし」、うまくいかなくなってからは、その心境を「映画に込めた」ということなのではない。

ゴダールという人は、そういう「意図的な映画の作り方」をする人ではなく、ただ「ありのままに自然に、直観的に映画を作る人」だからこそ、否応なく、つまり「体裁を繕う」ことなく、その時の「気分」がストレートに反映された作品を撮ってしまうのだ。そうなってしまうのである。

(ゴダールとアンナ・カリーナ)

そういう作品を撮ろうとして撮っているのではなく、「いつものように」「いつもの、好きなもの、興味のあるもの」を集めてきて、いつもどおりに、自分の好きな映画(フィルム)という「形式」を「台紙」にして並べてゆき、コラージュ作品を作った結果、そこには意図せずに、その時のゴダールの「気分」が反映することになってしまった、ということなのである。

だから、ゴダール作品の場合、そこに「描かれていること」を、いくら分析したみたところで、ゴダールその人に届くことはない。
それらのパーツは、たしかに「ゴダールの好み」にしたがって集められたものであり、その意味では、その「趣味」くらいはわかるとしても、その時々の「ゴダールその人」を理解することはできないのだ。

言い換えれば、ゴダール作品を理解するためには、「物語性・筋書き・ストーリー」でもなく、「テーマ性」でもなく、そして「映像的な技巧」でもなく、それら「意図的なもの」を超えて滲み出してくる、ゴダールという人の「気分」を把握しなければならないのだ。
そしてそれは、ゴダール自身が「よくわかっていない」、その意味で「非論理的なもの」なのである。
そのため、そうしたことから、ゴダールは「難解」だと言われるし、「難解だと誤解されてしまう」のだ。

つまり、ゴダールという人は徹頭徹尾、普通の意味での「論理的思考」ができない人、なのである。だから、彼の言うことは「わかりにくい」し「感覚的」なのだ。基本的に彼は、その時の「気分」を「言葉にしている」だけであって、「論理的な説明」をしているわけではない。
だからそこに「一般的な理路」を見出そうとすると「わからない」「難しい」ということになる。

(非現実的なの人物が、脈略もなく出現しては消えていく『ウイークエンド』の世界)

だが、この「難しさ」「難解さ」というのは、「哲学者」のそれとは、質の違うものなのだ。「複雑で深いこと」だから「理解しにくい」のではなく、「一般的な理路」では語られていないから、わかりにくい。
たとえば、時に詩人の言葉のように、ごく個人的な言葉だからこそ、その独自の理路を理解しないかぎり(あるいは、波長が合わないかぎり)、どんなに頭の良い人でも、ゴダールが「何を言いたい」のかを、正しく理解することはできないのだ。

言い換えれば、ゴダールの作品が「わかりにくい」のは、「深く複雑な意味が込められているから」ではなく、「通常の意味での意味が、そこには存在しないから」なのだ。
その作品は、「共通言語」で語られているのではなく、言うなれば「詩的言語」のようなもので語られているのである。

例えは悪いが一一、例えば「統合失調症」の人の言葉が「理解不能」なのは、そこに「深く複雑な意味が込められているから」ではない。かといって、まったく「出鱈目なこと」を語っているのでもない。

「統合失調」とは、文字どおり、五感などを通して得た「情報」を、他者にも、伝わるかたち、意味をなすかたちへと「整理・編集する」つまり「統合する」その能力が、「失調した」状態を指している。
言い換えれば、「編集」されていない「未整理の生情報」が、ランダムに出てくるからこそ、「整理済み」であることが当たり前になっている私たちには、「統合失調症」の人の言葉からは「脈略」を読み取れないので「出鱈目」なものと感じられるのだけなのだ。つまり、統合失調症の人の言葉とは、まったくの「出鱈目」なのではなく、単に、最終課程としての「編集」が欠落しているだけであり、編集されていない素材としての「個々の情報」そのものは、「現実的な情報」そのものなのである。

そんなわけで、ゴダールの作品が「わかりにくい(難解な)」のも、これと似たようなことで、ゴダールは「ことさらに難しいことを語っているわけではない」のだ。
ただ、彼の「情報選択と編集の形式」が特殊で個性的なもの、つまり「一般的なもの」ではないのに、私たちは、そんな作品に対して、一般的な「解読格子」を当てて、それで「理解」しよう、自分たちの世界へ引き込もうとするから、そうした「理解格子」からはみ出していくゴダールという人や、ゴダールの作品を、「理解不能」だと考えてしまったのである。誤解してしまったのだ。

これも例えて言えば、訛りがひどくすぎて「ちょっと日本語にも聞こえる英語」を、「日本語」だと思い込んで理解しようとすると、「何を言っているのか、意味不明だ」という結果になるのと、似たようなことだ。
それが、いくら訛りがひどくて「日本語」風に聞こえるものであっても、その本質が、自分の知らない英語であることに気づいたなら、わからないこと自体には「何の不思議もない」ということになる。
あとは、英語を勉強し、さらにゴダールの「訛りの法則性」を理解すれば、それは完全に理解可能になるのである。

だから、ゴダール作品を理解するためには、それを「普通の映画」のように、「物語性・筋書き・ストーリー」や「テーマ性」といった観点から見てはいけないのだ。

ゴダールにとっては、それらは所詮「映画」という形式に落とし込むための「台紙的な方便」でしかなく、そこにゴダールの意図は存在しないからだ。

例えば、普通の「コラージュ絵画」を見て、そこに「唯一の物語=作者が意図して込めた物語や主題」を読み取ろうとするのが「ナンセンス」だということは、容易にご理解いただけよう。

(岡上淑子『招待』)

「コラージュ作品」とて、完全に出鱈目に作られるのではなく、例えば、人の頭の部分に「薔薇の花」を置くというのも、「テレビ」を置くというのも、それはその時の作家の、ある種の「気分」の反映(内的必然)である。明確な「意味や意図」は無くても、そこには「この場合、これしかない」というような、ほとんど「直感的な作者の意図としての選択」が働いているというのは、否定できない事実であろう。人間は、完全に「無意識」に作品を作ることはできないのだ。そこに明確な「意図」は無くても、「自覚されざる意図」「意図されざる意図」というのは、確実に存在しているのである。一一そしてだからこそ、その作品は、作者の中にあった「何か」を反映することになり、それが「論理的ではない意味」を、作品の上に反映することになる。

だから、そうした「コラージュ作品」は、意識的な「意図や意味」は無くても、作品自体からは「何か」が感じられるし、そこに「物語」や「意味」を読み込むことも可能になるのである。

だがまた、そのようにして「読み取られた意味」は、作者が「意図して込めた」ものではなく、作者が無意識に作品に込めてしまった「気分」によって、鑑賞者の意識や記憶が触発され、読者自身の中から「触発・呼応」的に生み出された「物語」であり「意図」となるのである。
だから、心理テストとしてのロールシャッハ・テスト用図画」の解釈と同様に、その意味するものは、人によって違ってくるのだけれど、しかし、作者が無意識にも「気分」を込めてしまう「コラージュ作品」とは違って、「ロールシャッハ式図形」というのは、あくまでも「偶然」だけで作られた「完全に無意味」なものだからこそ、作者のいる「コラージュ作品」よりも、鑑賞者の「解釈の幅」は、自ずと広くなる。
そこに読み取られるのは「鑑賞者のそれぞれの意識または無意識のみ」であり、そこに「特定作者の気分」という限定条件がつかないからだ。

(ロールシャッハ・テスト用図画)

このように考えてくれば、ゴダールには、何も難解なところなどない、ということが理解されよう。
ただ、ちょっと「変わっている」だけであり、その「変わり方」が珍しいものだから、私たちはつい「過剰解釈」をしてしまい、「難解」だと「誤読」してしまうのである。

また、ゴダールには「わかりやすい映像的なセンス」があるからこそ、それに見合った「深い意味があるのではないか」とも、いきおい私たちは誤解しがちなのだが、そんなものは無いのだ。映像センスの有無と、語るべき中身の有無とは、基本的には、無関係なのだ。

彼が、名作映画を引用しようと、文学作品や哲学書の文章を引用しようと、それは、それらに対してゴダールが「論理的に深い理解を持っている」ということではなく、言ってしまえば、それが「好き」というレベルにおいての「理解」を持っているに過ぎない。

だからゴダールは、まるで「無邪気な子供」のように、それらの「好きなもの」をあれこれ集めてきては、好きな「フィルムの上」にあれこれ配置して、自分なりの「箱庭療法」的な「コラージュ作品」を作っているだけなのである。
そしてその「好きなものの寄せ集め」が、たまさか「思いがけない出会いとしての美」を産むことを期待するし、映像的センスのある彼は、時にそうした「奇跡的な美的事件」を引き寄せてしまうのである。

(「箱庭療法」の箱庭)

いつも、そううまくはいかないから失敗作もあるけれど、それは当たり前のことなのだ。
彼が「形式論理的な方法論(理屈)」には寄らず、直観と「偶然」の可能性に依拠している以上、成功もあれば失敗もあるのは、当然のことなのである。

ゴダールの作品が、基本的にはすべて「何がやりたいのか、よくわからないような作品」でありながら、それでも「文句なしの成功作」と「ほとんど失敗作と呼んで良い作品」とがあるのは、こうしたゴダール映画の作り方の「特性」からくるものなのである。それは無難に安定的な創作作法ではないのだ。

彼は、できるかぎり「自分の知性や思想」などという「小賢しいもの」ものを排除して、ただ、その「美的直観」の赴くままに作品を作ろうと努力し、それがうまくって、そこに「予想もしなかった美」が宿ることもあれば、そうはいかなかったことも、しばしばある。

ただ、彼としては、「商業映画」的な「縛り」の中では、彼の望むような「美の恩寵」は訪れないであろうことを知っていたからこそ、彼はそうした「縛り」から自由であろうとしたのである。

したがって、彼はことさらに「反骨」「へそ曲がり」だというのではなく、むしろ「自由」であるためには、否応なく「反骨」「へそ曲がり」たらざるを得なかったのだ。
時に、一般的な意味での「人間的な幸福」を捨ててでも、この世の「縛り」から「自由」であろうとせざるを得なかった、ということなのである。

私たちが、ゴダール作品を見る時に考えなければならないのは、彼が「何を表現しようとしたのか」ではなく、彼が「何を待ち望んだのか」ということなのである。




(2024年7月30日)

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