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マフムード・ダルウィーシュ 『パレスチナ詩集』 : 届かない声

書評:マフムード・ダルウィーシュパレスチナ詩集』(ちくま文庫)

詩歌オンチを自認している私が、どうして本書『パレスチナ詩集』を読んだのかといえば、ひとつには「パレスチナ問題」については、もう30年来、興味を持って見守ってきたからであり、もうひとつは、尊敬する、故・エドワード・サイードが、この詩人に触れていたのを、かつて読んでいたからである。
ダルウィーシュの「詩」そのものを理解することはできなくても、その作品に触れることによって、その息吹に触れられれば、それで十分だと考えたのだ。

読書とは、その本の100パーセントを理解できなかったとしても、つまり、理解できたのが、たとえ1パーセント、2パーセントであったとしても、「何も知らない」「触れたこともない」というのとは、ぜんぜん意味が違うと、そういう考えを持っていたのである。

もちろん、ダルウィーシュの詩を「読んで」みて、やっぱり「よくわからなかった」というのが偽らざるところだった。
だが、幸いなことに、本書には、訳者である四方田犬彦による懇切な「解説」がついていたので、「詩を味わった」というのとは違うとしても、ダルウィーシュがどんな人で、その詩にどのような想いを込められているのかといったことを、ある程度なら理解することもできた。これは、大きな収穫であり、「理解」であったと言えるだろう。

「解説」で四方田犬彦が書いているとおりで、ダルウィーシュの詩というのは、「多重の意味」が込められているので、そもそもわかりにくい。まして、私などが、読んで即理解できるような代物では、到底ない。
そこには、「パレスチナの苦難の歴史」や、それに伴う「ダルウィーシュの個人史」が込められているだけではなく、「古今東西の詩歌の歴史」が重ね塗りかれているのだから、彼の詩を完全に理解しようと思えば、相当の「教養」だって必要なのだ。

だが、そうした「完全な理解」は無理でも、私たちであっても、この詩集を読んで「何かよくはわからないが、重いものがある」ということなら感じ取れるはずだし、そのくらいの感受性ならば、幸いなことには私にもあった。

そして、その「実感」から、四方田犬彦の「解説」に導かれて、ダルウィーシュの詩に込められた「古今東西の詩歌の歴史」の「意味」を問うならば、そこに浮かんでくるのは、「詩歌に何ができるのか?」「詩歌の存在意義とは何か?」といったことであり、必ずやそうしたことが、そこに書き込まれているであろうことくらいは、容易に推定され得るであろう。
いくら「平和」を願い「普通の生活」を願って歌ったとしても、「それが、何になるというのか?」といった自問。

もちろん、実際問題として、詩歌で「戦争を止める」ことはできないし「故郷を取り戻す」こともできない。

だとしたら、詩歌はただ、その作り手の、あるいは読み手の「自己満足」のためだけにあるのか?
あるいは、「解説」でも触れられているホメロスが、トロイア戦争の叙事詩を遺したように、戦争は止められないにしても、その「歴史を語り遺す」ことによって、人間が同じ誤ちを繰り返さないようにするための「叡智」を、「詩歌」というかたちで遺そうというのであろうか?

もちろん、それもこれもあるだろう。だが、少なくとも、ホメロスの遺した叡智が、ついに人間の愚かな行動を止め得ないという事実を、私たちはもはや、否定できない場所に立っている。

ならば、人はどうして、それでも歌うことを止めないのか?

やはり、「娯楽」ということが、第一なのだろうか? 一一たぶんそうなのだろうと思う。

ここ数年、日本においては「短歌ブーム」がにわかに巻き起こり、短歌界は、時ならぬバブル景気に沸き立っている。一一とこう書いては、皮肉にすぎようか?

しかし、このブームは「短歌が、お手軽な自己表現であり、承認欲求を満たすためのお手軽なツールを求めている多くの人たちの需要に合致しただけ」なのではないのか?
つまり「短歌」に、ことさらの価値があるわけではなく、「百円ショップの便利アイテム」と、なんら変わらないのではないのか? 「百円ショップの便利アイテム」は、決して馬鹿にはできない「優れもの」なのだ。

私がこんなことを考えたのは、「解説」の中で四方田犬彦が、この翻訳詩集の親本が刊行された際、詩歌界からの反応が、全くなかったと、いささか不満げに報告していたからである。

無論、評価するしないは、その人の勝手なのだけれど、しかし、この世界的に著名な詩人の作品について、日本の詩人歌人が、何の反応も示さなかったのは、いったい、なぜなのであろう?

ひとつには、彼らには「パレスチナ問題」になど興味はないから、ダルウィーシュのこともぜんぜん知らなかった、ということだってあるかもしれない。
日常の中の感情の機微を「上手に掬い上げる」ことに忙しい彼らには、遠いパレスチナの問題など、所詮は「実感を伴わず、真の感興をひき起こすことのない、伝聞情報でしかない」ということ、なのかもしれない。テレビニュースを見て詩歌を作るというのは、いかにも安直であり邪道だと、そのように思われているから、パレスチナ問題などには、世間並みに、とおりいっぺんの興味しかないのかもしれない。

もちろん、そんな詩人歌人だとて、「パレスチナ問題」についてインタビューでも受けたなら「それらしい共感を示して、心を痛めているようなフリ」くらいはするだろう。
だが、それが本物ではないのは、彼らの詩歌に「パレスチナ問題」が占める位置など無いという事実に、明らかなのではないだろうか。

だから、そんな彼らが、ダルウィーシュに興味を示さないというのは、むしろ「当然」のことなのかも知れない。
だが、詩人歌人ならば、「パレスチナ問題」には興味がなくとも、せめて、この世界的な詩人とやらの詩集の1冊くらい、どんなものなのかという興味本位でだけでも、読んでみる気にはならないのだろうか?

それとも、読んでいながら、意識的に無視したのであろうか?
だとすれば、その理由は、何なのだろう?

私に思いつくのは、四方田犬彦が、専門の詩人歌人ではないから、詩人歌人から見て、その「翻訳詩」の出来が「不出来い(まずい)」と感じられたから、評価できなかった、というようなことだったのだろうか?

詩歌オンチの私には、当翻訳詩集の「詩文としての出来」ということまでは判断しかねるので、もしかするとそういうこともあるのかもしれないとそう思いつつ、それにしても、翻訳が悪くても、ひとまず読む価値はあるのではないかと、そうも思うのだ。

翻訳の良し悪しの前に、この詩集には、読むべき価値としての「中身」や、そして「声」があり、それを感じ取ることならできるし、中身はあっても翻訳が悪いと言うのなら、理想的な翻訳に「改訳」しようと考える詩人や歌人がいてもいいのではないか?

しかし、そこまで考えるためには、そもそも「パレスチナ問題」に、興味がなければならないだろう。

今は、にわかな「短歌ブーム」だといったところで、これが永久に続くわけではなく、詩歌人気というのは、基本的には「長期低落傾向」にあると言って過言ではないだろう。それを、本質的に脱し得てはいないのではないか。

お手軽に書けるから、書きたい人が山ほど出てきて、そういう人たちが歌集を買うので、「短歌ブーム」になってもいるわけだが、言い換えれば、純粋に「短歌」を鑑賞したいと思っている人など、そんなに増えているわけではないのではないか?
売れている歌人の歌集を読んで、「どうすれば、ウケる短歌が書けるのか?」と考えたり、「どうすれば、自分も注目される歌人になれるのか」と、そんなことを考えている人たちが増えたとしても、そんなブームは、文字どおりに「虚栄の市」でしかないのではないのか?

しかし、詩人歌人が、そうした「村社会での栄達」にしか興味がないのだとしたら、本書のような、縁遠い世界の「有名詩人」の詩にまで、興味を持つことがないというのは、むしろ当然のことなのかもしれない。

「遠くの困っている人のことより、今日の稼ぎが大切」だというのは、ごく当たり前のことであり、重要なのは「私の詩歌」なのであって、「遠くの見知らぬ人たちの詩歌」などではない、ということなのかもしれない。

「他者」には興味がない。

ただ、「隔離壁に囲い込まれた、自分の領土」が増えることこそが大切なのだと、そう考えているのではないのだろうか、実際のところ?

しかしだとすれば、やはり「詩歌は無力」なのであろうし、ダルウィーシュの詩が、どこか重いものとなるのも当然であろう。

「古今東西の詩歌の歴史」について通じてはおらずとも、身近な現実に通じているのであれば、ダルウィーシュの想いの一端には触れ得ているのかもしれないと、私は、そう思うのである。

死んでいるわたしが好き

連中が好きなのは死んでいる、このわたし。「彼はわれわれの仲間、
われわれのものだった」というために。
二十年の間、わたしは夜の壁越しに彼らの足音を聞いてきた。
扉も開けないくせに、ほら、連中は今もここにいる。三人の姿が見える。
詩人、殺し屋、本の読者。
「ワインでもいかがですか」とわたしは尋ねた。
「どうも」と連中。
「わたしをいつ撃つおつもりですか」
「まあまあ」
連中はグラスを一列に並べて、人々のために歌いだした。
「殺人って、いつ始めるのですか」
「もう始めてるよ……なぜまた魂に靴を送りつけたりしたのかね」
「そのほうが、靴が地上の表面を勝手に歩けるでしょ」
「地上の暗さは性質(たち)が悪いですな。なぜあんたの詩はこう白いのかね」
「心が三十もの海でいっぱいだからですよ」
「フレンチ・ワインが好きなんだね」
「どうせ好きになるなら一番綺麗な女と決めてるので」
「どんな風に死ぬのが好きかね」
「青、窓から溢れ落ちた星々のように。ワインもう少し、いかがですか」
「いただきましょうかね」
「お時間はいいんですか。殺すならゆっくりお願いします。
わが心の妻のために最後の詩を書いてやりたいので」連中は笑い、
わたしから、心の妻に献げるはずの言葉だけを取上げた。

(P14〜16)


(2024年10月22日)


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