堀江宗正編 『宗教と社会の戦後史』 : 「本来、 わが宗門は」 という 自己正当化
書評:堀江宗正編『宗教と社会の戦後史』(東京大学出版会)
本書の中で、私が最も共感したのは、「宗教宗派の自己正当化」問題に言及した部分である。
平たく言えば、仏教にかぎらず、キリスト教やイスラム教などでも典型的に示されるとおり、たいがいの宗教宗派というものは、多かれ少なかれ「虐殺的暴力」に加担した「負の歴史的事実」を持ってながら、後になれば、それを「一時的な状況的過誤」であって「本質的な問題」ではないと、自己正当化して来た、ということである。
「本来、わが宗門は」非暴力であり、寛容であり、弱者の味方であり、非差別である、などと、「歴史的事実」をあっさりと放擲して、「教義上」「タテマエ上」の「言葉」の方こそが、「本質」であり「本来の姿」であると、臆面もなく主張するのだ。
本来であれば「なぜ我々は、教えに反して、このような誤りを犯してしまったのだろうか?」「それは、我々個々の信仰が弱かったためなのだろうか? それとも、そもそもこの信仰は、弱い私たちを強くする(救う)力を持たない、ということを意味するのだろうか?」と問わなくてはならない。
なぜなら、もしも、その信仰が「弱い人間を真に強くする(仏や菩薩にする)力を持たない、単なる絵空事(フィクション)」なのだとしたら、そんな信仰を持つ(幻想に依存する)人たちは、いつまで経っても「反省」や「改心」をすることが出来ないだろうし、何度でも同じ誤りを繰り返すことになるだろうからである。
この問題は、本書でも指摘されているとおり、「オウム真理教」問題に対する、仏教各派の言い分でも同じである。彼らは「オウム真理教のようなものは、仏教の教えとは縁も所縁もないものだ」と、「無縁」性をアピールしたがった。
しかし、オウム真理教の教説の一部は、確実に仏教の教説に由来するものであり、決して無関係ではないのだから、仏教各派が本来採るべきだったのは、「私たちは無関係だ」という保身的なそれではなく、「他人事と考えず、他山の石としなければならない」というコミット的態度だったのではないだろうか。
だが、そうした謙虚な反省のできる宗派教派はほぼ見られず、多くの宗派教派は、いつでも「本来、わが宗門は」こんなに素晴らしいのだという「自己正当化」にばかり腐心するのである。
私は、主としてキリスト教に注目し、批判や指摘をしてきた者だが、こうした問題は、一般信者に止まらず、むしろ指導的な立場にある少なからぬ教派理論家(神学者)たちこそが、このような「自己正当化」に貢献しているいう現実を、ウンザリするほど見てきた。
しかし、いかにウンザリさせられようと、「宗教と社会」が、切っても切れない関係にある以上、これからも私たちは、捲まず撓まず「宗教各派の自己正当化」の問題に注目し、検証・批判していかなければならないのである。
初出:2019年7月12日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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