坂倉昇平 『大人のいじめ』: いじめにおける〈日本的な労働環境要因〉
書評:坂倉昇平『大人のいじめ』(講談社現代新書)
本書著者は、労働問題を扱うNPO法人「POSSE」の理事を務める人物である。つまり、労働問題の専門家だ。
では、その「労働問題の専門家」が、どうして「いじめ」という、一見「畑違い」にも思える問題についての本を書いたのか。それは、殊に日本の場合、「大人のいじめ」に関しては、労働環境の問題が大きく影響しているからである。
つまり、「子供のいじめ」がしばしば「教育環境」や「学校における教育現場環境」から生まれてくるように、「大人のいじめ」においても「職場環境」あるいは「労働環境」が、無視し得ない大きな発生要因となっているのだ。
本書著者が示した労働問題という視座から、私なりに本書の「大人のいじめ」論を整理してみると、大筋で次のようなものになる。
次に、上記のような「いじめ」を生む、日本の労働現場の状況として、次の2点が大前提となる。
そして、この(A)と(B)が重なったところに、最初に示した(1)〜(3)が、おのずと発生する、というわけである。
以上の説明で、大筋はご理解いただけたであろうが、以下に簡単に説明を加えておこう。
(1)について。
要は、理由がどうあれ「仕事ができない人間(男並みではない女性、障害者、仕事の遅い人、家庭の事情で皆と同じように働けない人など)」をいじめて、無理にでも仕事をさせたり、追い出したりするということだ。
これは(B)によって、労働者が「自発的」にやってくれることだから、企業側はアリバイとしての「いじめはいけませんよ」くらいの建前を語っておき、あとは労働者に勝手にやらせておくのである。そのため、このいじめは、企業が「公式には禁止」していても、無くならないことになる。そして、企業は「よく働く社員だけ」を「低賃金」で雇うことができるというわけである。
(2)について。
これも、長時間労働によって溜まったストレスを、(B)によって、労働者が勝手に仲間内で「ガス抜き」をしながら働いてくれるので、労働者の「福利厚生」などに配慮する必要がなくなり、企業側には好都合。
言い換えれば、長時間労働の職場は、おのずといじめも多い、ということになる。
(3)について。
企業側は、「労働組合員」に代表される、企業に「物言う労働者」に対するいじめを、黙認する。
では、どうして「物言わない労働者」たちは、労働条件の改善運動をしてくれる組合員や「物を言う労働者」をいじめるのだろうか?
それは、会社にアイデンティティを委ねきって一体化した「会社人間」であったり、「労使強調の、和をもって貴しとなす」といった体質が、日本人労働者にはありがちだからだろう。
ネット右翼などがそうであるように、自分が「弱者として権力者から虐げられている」という現実の直視が苦しいために、逆に権力の側と心理的に同一化して、「権力者目線(会社目線)」となり、強くなったという勘違いによって、安心を得ようとするのだ。
また、組合員が組合活動に時間を取られていると、「サボっている」「あいつだけ楽をしている」といった「妬み」が出てくる。これも、いかにも日本人らしい「隣の芝は青い」でしかない。
たしかに、御用組合のように、会社と結託することで「労働者の権利ために闘うこと」をサボるのが仕事のような社内組合も多いだろうが、そんな「組合員は(会社の仕事を)サボっている」というのが問題なのではなく、「組合が組合の仕事をしていない」というところが問題でなのあり、組合員を十把一絡げにして敵視するのは、レッテルに欺かれた、いかにも愚かな見当違いでしかない。
そして、このようなあれこれが重なった結果、とにかく「毛色の変わった奴」は「不愉快」だという、日本人らしい「盲目的な感情」が発動して「出る杭は打たれる」という状況になり、いわば自分の首を自分で締めることによって、さらに職場は息苦しくなっていくのだ。
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総論として、日本の職場におけるいじめというのは「悪しき労働環境に対する、見当はずれのはけ口」という側面を持っているが、こうしたいじめが最も多いのは「保育・介護」の職場だという。
これは、端的に言えば、給料が安く、それでいて過重な労働が強いられる職場だということだ。つまり、一人だけやる気を出してもいじめられるし、やる気がなくてもいじめられる。要は、どちらにしろ、その職場の空気を読んで、それに合わせられないかぎり、いじめの対象として「和を乱す存在」だと認定されてしまうということである。
同様に、日本の職場では、知的障害者に対するいじめも目に見えて増えているのだが、もはやその理由の説明は不要であろう。
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では、こうした理不尽ないじめに対して、労働者はどう対処すればいいのであろうか?
無論、答えは、「いじめる側に回る」か、「いじめられる側になる」か、「いじめと闘う」か、の三者択一である。
「あなたならどうする?」と問われて、「いじめる側に回る」と答える人など、無論多くはないだろうが、日本人の特性である「和を以て貴しとなす」「空気を読む」「長いもののは巻かれろ」といったことからすれば、実際のところ、多くの人は、「いじめる側に回る」でしかあり得ない。
「いや、私はいじめには加担しない」という人も、良くて「傍観者」でしかなく、実質的には「いじめの黙認者」であり、その意味では「共犯者」に近いと言えよう。
子供のいじめの問題では、しばしば「見て見ぬふり」こそが問題となっていて、「声をあげよう」とか「大人に助けを求めよう」といったことが教えられるが、これは大人の場合だって同じはずなのだ。
だが、むしろ子供よりも大人の方が、これをしないことが多い。理由は、子供と同じく「告げ口をすると、今度は自分がいじめの標的にされるかもしれない」と怖れるからだ。
先の問いに対し「いじめられる側になる」と答える人は、まずいないだろう。わざわざ職場でいじめられたい人などいないからだ。
しかし、前述のように「いじめる側に回る」こともせず「黙認する」こともしないのだとすれば、それはおのずと「いじめと闘う」側に回るしかない。そしてその意味で、あえて「いじめられる側になる」、言い換えれば「いじめられる側に立つ」ということになるだろう。
したがって、いじめの問題においては「責任を問われない、中立的立場」というのは、ありえないのだ。「いじめる側に回る」つもりがないのであれば、おのずと「いじめと闘う」しかない、ということになるのである。
つまり、いじめの問題を解決するには、まず当人が動くしかない、ということである。
自分が動かなくても、『行政や政治家、会社』が、その窮状を察して、動いてくれるはずだ、いや動くのが仕事だろう、と考えたくなる気持ちはよくわかるが、それはあまりにも考えが甘い。
力のある者は、自分のためにその力を使うことはしても、他人の面倒までは見きれない。しかし、他人の面倒も、見なければならないところに追い込まれれば、嫌々ながらではあれ動くだろう。
だから、私たち弱者は、『行政や政治家、会社』を動かすためのアクションを、まず自分の方から起こさなければならないのである。
このように書くと『平穏無事に働きたいだけなのに、なぜ自ら事を荒立て、波風を立てるようなことを勧められなければならないのか。』と思う人が多いのだろうが、それで済まないからこそ、このように勧めるしかないのである。
無論、あなた自身が「いじめる側」であったり「黙認する共犯者」であったりするのであれば、こういう面倒なことはしなくて済むだろう。
だが、不本意にもあなたが「いじめられる側」に置かれた場合、闘わないのならば、それはおのずと、いじめを甘受するしかなく、心や体を病んで仕事ができなくなったり、不本意にも職場を去ったり、自殺したいと考えるようなことにもなるだろう。その場合、もはやあなたには、選択の余地などないのである。
つまり、むざむざ殺されるか、立ち向かうか、の二者択一なのだ。
私たち大人は、子供に対し「いじめはいけない」「いじめを見たら、止めなくてはいけない。それが無理なら、大人に助けを求めよう」などということを、なかば「当然の正義」として教えているだろう。だが、その当の大人が、じつはそれをまったく実行できてはおらず、実際には、目の前のいじめに加担し、あるいは黙認しており、それを都合よく、意識の外へ追いやって「幸い、私の周囲には、いじめがない。でも、あれば闘う」などと、お目出度いことを考えているのである。
本書には、ここまで厳しいことは書かれていないが、実際のところ「闘わなければ、いじめる側になるしかない」からこそ、本書では「具体的な闘い方」を教えているのだ。
だから、本書に教えを乞う必要のない人というのは、現にいま、本書が教える現実的な仕方で闘っている人たちだけである。それ以外の人は、多かれ少なかれ、いじめを黙認しており、その事実を意識の外に追いやっているのだと自覚すべきであり、一一無論、私だってその一人なのだ。
いま、私たちはちょうど、映画『マトリックス』第1作で、「不思議の国」の導き手であるモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)から、「青い薬」と「赤い薬」の、どちらを飲むかと選択を迫られている、主人公ネオ(キアヌ・リーブス)と同じ立場に立たされていると言えるだろう。
「君はどちらを選ぶ?」
もちろん、売れ行きは圧倒的に「青い薬」の方なのだろうが、この選択には、あなたの「人としての尊厳」が賭けられているのだ。
(2022年2月10日)
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