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島薗進 『ポストモダンの新宗教 現代日本の精神状況の底流』 : 私たちの〈似姿〉としての 新・宗教

書評:島薗進『ポストモダンの新宗教 現代日本の精神状況の底流』(法蔵館文庫)

本書のタイトルにある「ポストモダンの新宗教」とは、簡単に言えば「オウム真理教」とか「幸福の科学」とか、ああいった、1970年代以降に出てきて発展していった「新新宗教」のことである。

「日本の宗教」をごく大雑把に区分すれば、

(1)江戸時代までに成立して、今も残っている「浄土宗」とか「真言宗」といったものが〈伝統宗教〉
(2)明治以降に出てきた、「大本教」とか「天理教」といったものが〈新宗教〉
(3)十五年戦争の敗戦後に出てきた、「創価学会」とか「立正佼成会」なども〈新宗教〉
(4)日本が敗戦からの経済復興を遂げた後に出てきた、「オウム真理教」とか「幸福の科学」とかいったものを〈新新宗教=ポストモダンの新宗教〉

だということになる。

本書の初版単行本は2001年に刊行されており、1995年の「オウム真理教による地下鉄サリン事件」の悪夢が醒めやらぬ中で刊行されてものなので、中心的に扱われているのは、言うまでもなく(4)の「新新宗教」である。

しかし、「新新宗教」は、前後の脈略もなく、いきなりぽっと現れてきたのではなく、その前の社会状況や宗教的状況を受け、その問題意識に立って生まれてきたものなのだから、当然、前の時代の「新宗教」についても、一定の知識を持っていなければ、「新新宗教」の出現が提起することの意味を、正しく理解することはできない。

しかしながら、「新宗教」と言っても、「戦前」と「戦後」では、その性格を大きく異にしているのは当然だ。
「戦前の新宗教」は、政府主導の「国家神道」政策に、「反発」するか「服従」するかという「2つの選択肢」しかなかったし、結論的には、程度の差こそあれ、すべての宗教宗派は「国家神道」体制に服従させられて、敗戦を迎えることになった。

だから、「戦後の新宗教」は、「戦後的な価値」としての「平和主義」や「大衆主義的民主主義」を信奉するものが主流となる。例えば、激しい「折伏戦=布教」で「過激」だった創価学会ですら、思想的には「平和主義」や「大衆民主主義」を掲げていた。そして、日本社会が、敗戦の焼け野原から復興し、高度経済成長を成し遂げるのと調子を合わせて、教団を大発展させていったのである。
こうした「戦後の新宗教」各派は、言わば「敗戦の悲惨」を出発点として、そこからの離脱を目指した「現世利益」に重きをおいた宗教教団だったと言えるだろう。

しかし、日本が経済的に豊かになって、それが「当たり前」と感じられるようになると、当然、「戦後の新宗教」が掲げたような「価値観」の魅力は霞んでしまう。日本人は「一億総中流」を実現して、すでに「食うには困らない」状態を達成したのだから、次に求められるのは「心の充実=内面性の重視」である。
その結果として「戦後の新宗教」の発展は頭打ちとなり、やがて、それに変わる「心=精神=霊性」の問題に重きをおく「新新宗教」が現れてくる。

当然「新新宗教」は、「戦後の新宗教」的な「戦後民主主義的な価値観」を、自明のものとはしない。いや、むしろそれに対し、積極的に疑問を付することになる。「果たして、それは本当に正しいのか」と。

だから、「オウム真理教」など「カルト」と呼ばれた「新新宗教」が、私たち一般人の感覚からすれば「非常識」だったのも、いわば当然なのだ。
彼らは、宗教的に「真理」を求めていたのであって、「世間的な常識」などといったものには、価値をおいていない。むしろ、それに「欺瞞」を見るからこそ、そうした「常識的価値観」であり、その根底にある「戦後民主主義的価値観」を否定するような行動を、あえて選びもするのである(このあたりは、ネット右翼や神社本庁・日本会議などとの動きとも、共時的である)。

例えば、「カルト」は、信者を「家族から切り離す」と、私たちは非難する。
しかし、これは「宗教よりも、家族が大切」という価値観に立っているからであり、さらに言えば「個人の意志よりも、家族や社会との調和が大切だ」という価値観を「自明の前提」としているからなのだが、多くの人は、そのことにまったく気づいていない。
なぜ気づかないのかと言えば、よほどの問題意識を持っていないかぎり、私たちは「歴史的に形成された、同時代的価値観」を、相対視することができないからである。

つまり、「新新宗教」を、あるいは「宗教」を考えるということは、「究極的な真理は、存在するのか否か」といった「宗教側の問題意識」ではなく、私たちすべてを含んだ「歴史的に生成される、同時代的な価値観」という「見えにくいもの」の存在を考える、ということなのだ。つまり、平たくいえば、一一「宗教は、時代の鏡」なのである。

だから、いかにも「変な宗教」が出てきたと、まるで他人事のように感じられたとしても、しかし、それもまた実際には「私たちの同時代精神の、誇張された戯画」だと考えるべきなのだ。

無論、「同時代精神」というものは、「宗教」というわかりやすい形態だけではなく、私たちの生活や行動のあらゆる面に表れているはずなのだが、私たちは、まさにその中にいて、そうした「同時代精神」を生きているからこそ、それに気づけないだけなのである。

つまり「新しい宗教形態」とは、わかりやすくて便利な、私たちの「心の似姿」だと、そう考えるべきなのだ。「一部の変な人」たちの話ではないのである。
まただからこそ、宗教学的研究には、リアルな価値もある。

私たちは、誰一人として「公正中立」ではない。誰一人として、「普通」などではない。
それは、私たちが「多数派の価値観」の中にいて、そこから周囲を見ているために、あたかも自分が「公正中立」であり「普通」であるかのように「誤認」しているに過ぎないのだ。

現に「変な宗教」をやっている人たちも、自分たちが「変」だとは思っていない。世間の方が「変」だから、相対的に自分たちの方が「変に見えるだけだ」と、そう考えている。

こうした「多数派(世間)」と「少数派(カルト)」の「お前のやってることの方が変だ」合戦は、端的にいって「幼稚不毛」であり、これが解決することなど永遠にないだろう。

しかし、少しでも理知的であらんとする人ならば、まずしなければならないことは「自他の相対化」だ。
完全な「鳥瞰視」など、神ならぬ身の人間には不可能であるとしても、少なくとも自身の立場を「特権視」するような「カルト」的立場には捉われないように努力すべきである。

そうした意味において、「同時代の宗教や宗教現象」というのは、私たち自身を映す「鏡」だと考えるべきなのだ。「変な宗教をやっている人たち」を「異人」だとして排除したところで、一時的なごまかしの「安心」は得られても、決して問題が解決することなどないからである。

例えば、人気アニメの舞台を見て歩く「聖地巡礼」。
これなども「他愛のないオタク趣味」だと片付けたくなるところだが、ことはそんなに簡単なものではない。
例えば、好きな「アニメ作品」や「アイドル」などのグッズに、多額な金銭を注ぎ込む行為を「お布施」と、宗教的な言葉で表現する。
これは、「お布施」が、「自身の信仰する偶像」への、具体的な「信仰告白」であり「信仰の強さ(忠誠心)の証明」に他ならないからである。

強信者が、自身の経済的身の丈に合わないほどの、多額の「お布施」をするのは何故か。
それは無論、自身の信仰の強さ深さを数値化することで「相応に報われるはずだ(見返られるはずだ)」と感じられるからである。

そうした意味で、「アニメ」だからとか「アイドル」だからといったことだけで、それを「信仰行為」ではないとすることはできない。
もともと、「信仰」とは「心理的依存」の一形態なのだから、それが「宗教」の形をとっている必要などないのである。

したがって、私たちが注目すべきなのは、「新しい宗教」はもとより、しばしば「宗教」には見えない「新しい信仰形式」の方だと言うべきだろう。

繰り返すが、これは他人事ではなく、私たちの「同時代的な似姿」である。
まただからこそ、それを正しく認知することに、大きな意味や価値が存するのだ。

初出:2021年7月10日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)

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