古泉迦十『崑崙奴』:幻想的な権威の限界
結論からいうと、期待はずれだった。
本書の帯には次のように書かれている。
私は、ここで語られている『火蛾』を、24年前の刊行時に読んでおり、当時「第二の京極夏彦の登場か!?」とミステリ界を騒がせた作品として、私も相応の期待を持って読んだのだが、正直なところピンと来なかった。
『火蛾』は「イスラム神秘主義(スーフィズム)」を扱った、たしか「密室殺人」がモチーフの作品だったと記憶するが、なにしろ四半世紀も前に読んだきりだから、その点はあまり自信がない。
とにかく、全体としては「悪くはないが、良くもない」という、ぼんやりとした印象が残っているだけなのだ。少なくとも、京極夏彦の作品のような、ましてやデビュー作以降の初期作品のような、「エッジの効いた作品」でなかったことだけは確かだ。
最後に明かされる真相も、どこか「神秘主義的な非合理性をあえて残したもの」であって、本格ミステリ的に、キッパリと合理的に解き切ってしまうものではなかった。
だからこそ、一部のミステリ・マニアには、「アンチ・ミステリ(アンチ・ミステリー)」の一種ではないかと理解され、過大な評価を受けたようなのだが、私には『火蛾』が、そのような作品だとは思えなかった。
というのも「すべての謎が解かれ切らない作品」イコール「アンチ・ミステリ」だというような安直な考え方は、『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』といった「アンチ・ミステリー」の源流となった作品への「無理解」に発するものでしかないと考えるからだ。
私が「「アンチ・ミステリー」とは何か:定義の問題」という文章を書いたのも、ちょうど24年前で、『火蛾』が刊行される、ほんの数ヶ月前のことだった。
だから『火蛾』のことを意識して書いたわけではなかったが、当時のミステリマニアの間で、「アンチ・ミステリー」という言葉が、相当にいい加減かつ曖昧に使われていることに、私が苛立っていたというのは確かだし、その記憶もある。
「全然わかっていないくせに、知ったかぶりするな」と、私はそのように、かなり腹を立てていたのだ。だから、「「アンチ・ミステリー」とは何か:定義の問題」には、そうした苛立ちが、かなりハッキリと刻印されていると思う。
そして、そんな当時の状況下において刊行され、話題作となったのが『火蛾』だった。
だから、これを読まないわけにはいかなかったのだが、その結果が「悪くはないが良くもない」というもので、最も重要な点は「作品としての線が細い」という印象にあった。
たしかに「書ける人」だし「教養があって頭のいい人」の書いたものだとはわかるのだが、いかんせん「小説として(作品として)の線が細い」。「うまい」とは言えても、「すごい」とは思えない作品なのだ。
だから私としては、肝心なところで、『火蛾』は、傑作でもなければ、ましてや「アンチ・ミステリ」でもないと判定した。
創作においてまず大切なのは、作品の「力」であって、作者の「技巧的なうまさ」ではない。
技巧とは、もともとある「力」を活かすためのものであって、「力」のないものの形をいくら整えたところで、それは、こじんまりとして「つまらないもの」にしかならないからだ。
そうした意味で、古泉迦十のデビュー作は「うまい人の佳作」でしかなく、以降、読む必要のない作家だと、私はそう判定したのである。
だが、ひとつだけ、不安要素はあった。私の上のような判断が「間違っている可能性」についての「不安」である。
どういうことかというと、当時の私は「イスラム神秘主義」について、完全に無知だったので、「そのために、作者の意図を読みきれなかったのではないか?」という「不安」が、多少なりとも残ったのだ。
しかしまたこれについても、「不安に思う必要はない」と考えるだけの理由はあった。
それは、普通の日本人読者は、誰も「イスラム神秘主義」に詳しくはない、という事実である。
言い換えれば、日本人の一般読者に向けて「イスラム神秘主義」を扱った「ミステリ小説」を書くのであれば、それは、それが「読んでわかるように書かなければならない」のであり、相応の力量のある作家ならそれができたはずだし、それが現にできていたなら、一読して『火蛾』を高く評価し得たはずだと、そう考えたのである。
つまり、『火蛾』の場合は、作者にどんなに深遠な狙いがあったとしても、それが作品に結実してはなかった、というのが、私の結論だったのだ。だから「この作家は、そこまでの人だ」と考えて「以降は、読む必要のない作家だ」と判断したのである。
そんな『火蛾』の作者・古泉迦十の24年ぶりの新作が、本書『崑崙奴』である。
そして、私の方も、24年前とは違い、多少なりとも「宗教」に詳しくなっていた。
もちろん、私の場合は、主に「キリスト教」と「仏教」、そして「道教」を齧った程度でしかない。
だが、個々の「宗教」に関する知識は限定されているとしても、「宗教」そのものの本質が、所詮は「願望充足的なフィクション」でしかないと断じられる程度には、「宗教」への理解を深めている。一一だから今回、24年ぶりに古泉迦十の新刊を読んでも、「宗教理解」の部分で「不安」を残すことはあるまいと、そういう自信を持って本作『崑崙奴』を読んだ。
しかも、本作で扱われている宗教は、主として「道教」であり、「イスラム神秘主義」とは違い、完全に無知無縁というわけでもなかったのである。
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本作『崑崙奴』の「あらすじ」は、次のようなものである。
つまり、大筋では「連続殺人もの」であり、その『屍体は腹を十文字に切り裂かれ、臓腑が抜き去られていた。』という「謎」を提示する形式の作品となっている。
つまり、「なぜ、被害者の頭部は持ち去られたのか?」「なぜ、壁に血のペンタグラムが描かれていたのか?」一一といった種類の作品と同種の「残された謎」を解こうとする物語なのだ。
そして、そこに「道教」思想が絡んで、神秘的な色合いが醸し出されるのである。
だが、じつのところ、この謎は「本格ミステリ」的に、合理的に解かれ得るものではない。いや、物語の後半では現にそれがなされるのだが、それは長い事件捜査の過程で、いろいろと情報が集まったから可能なのであって、殺人現場の(複雑な)状況からだけでは、とうてい論理的な謎解きは不可能なのである。
つまり、この「遺体の状況の謎」は、本作のメインの謎ではなく、あくまでも「物語を牽引していくためのフック」だと考えるべきなのだ。
では、他に重要な「謎」の提示があるのかと言えば、あるのだ。一一それは「密室内から消えた、大量の金塊の謎」である。
本作は「連続殺人もの」ではあるけれども、本格ミステリとしてのメインの「謎」は、「密室からの消失」だったのである。
そして、このメインの謎に対する謎解きが弱い、という点に、本作の「本格ミステリ」としての弱さがある。
またそれは、この「密室からの消失」の謎が、基本的には、京極夏彦のデビュー作『姑獲鳥の夏』のメイントリックの劣化版でしかない、という点にある。
その弱さを補うためだろうか、道教の練丹術(錬金術)に関わる、特殊な科学的知識が援用されているのだが、「特殊な知識がなければ解けない謎」というのは、「本格ミステリの謎」としては、すでに「二流」なのだ。だから、それで「弱点の補強」とはなっていないのである。
したがって、本作を「本格ミステリ」として読めば、やはり「博識かつ文章のうまい作家による、完成度の高い佳作」ということになるだろう。「良くは書けているが、しかし、いかんせん線が細い」という評価であり、結局のところ、24年前の『火蛾』とほとんど同様なのだ。
そして、本作でも、多少問題になるのは、ラストの「神秘的な描写」である。
本作の「真の主人公」ともいうべき人物が、人間業とは思えないかたちで、見守る関係者の目前から遠く消え去っていく。残された人々に「彼はやはり、神仙のたぐいだったのではないか」という思いを残して。
しかし、無論これも、「本格ミステリ」的に言えば、「合理的な解答を、あえて留保した謎」でしかないと、そう読むこともできる。
この程度の「不思議」は、「本格ミステリ」の中では、いくらでも解きようのあるものでしかないのだ。
では、この「中途半端なラスト」が何を意味するのかと言えば、それはたぶん、作者である古泉迦十の「超越的なものへの憧れ」でしかなかろう。
たしかに、古泉迦十は、教養があって頭も良いし、その上「人格的なバランスの取れた人」でもあろう。そのことが、その文章から読み取れる。
一一だが、だからこそ、古泉迦十には、この世の「理」としての「非情さ」を認めたくない部分があるのではないか? それを拒絶したいという気持ちが、古泉を、超越的なもの、つまり「神秘主義」に傾かせているのではないだろうか。
言い換えれば、古泉迦十という人は、この世の「理」としての「非情さ=非情な現実」というものを、明晰に理解してはいても、だからと言って、それを認めた上で、それに「対抗」しようとするほどの「線の太さ(胆力)」を持つ人ではないのだ。つまり、「肝が抜かれてしまっている」。
それが、端なくも「作品」に現れているのである。
そうした意味で、古泉迦十の小説は、「書斎派インテリのため息」めいたものを感じさせて、その点で、私には、まったく物足りない。
ちなみに、『火蛾』の「あらすじ」は、次のようなものである。
こうして見てみると、『火蛾』と『崑崙奴』は、その造りからして良く似ていることがわかる。
古泉迦十が、24年間も新作が書けなかったのは、結局のところ、書きたいものが他になかったということでもあれば、早々に答を出してしまった人だったということを、これは意味しているのではないだろうか。
(2025年1月18日)
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