ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 『愛はさだめ、さだめは死』 : 「二重性」の悲劇
書評:ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『愛はさだめ、さだめは死』(ハヤカワ文庫)
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『愛はさだめ、さだめは死』は、先日読んだ『たったひとつの冴えたやりかた』に続く、私にとっては2冊目となる同著者の著作なのだが、本書を読んで、前冊に感じた「違和感」の正体が、ほぼ判明したように思う。
それは、原題がどうであれ、『たったひとつの冴えたやりかた』とか『愛はさだめ、さだめは死』とかいったタイトルは、いずれにせよ、娯楽小説らしく表面をとり繕った「偽善的な綺麗事」にすぎない、ということである。
本書の冒頭には、先輩SF作家であるロバート・シルヴァーバーグによる「ティプトリーとはだれ? はたまた何者?」と題する序文が収録されている。
内容は、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアが、まだ「覆面作家」だった頃に書かれた、シルヴァーバーグの「ティプトリーとは、こんな人物ではないか」という人物推理エッセイに、ティプトリーの正体が明かされた後の感想を追記したものである。
つまり、3年前のSF業界内では、ティプトリーという「謎の存在」について、様々な揣摩臆測が飛び交い、中には「男性名を使っているが、実は女性なんじゃないか」と推理する者もいたけれど、シルヴァーバーグとしては、作品の内容や文体などからして「男性としか考えられない」とする立場だった。
ところが、ティプトリーの正体が女性だと明らかになったので、シルヴァーバーグは、自分の中にあった思い込みや偏見を再検討しなければならなくなったと、そういう趣旨のことをユーモアを交えて追記したのが、この序文である。
このシルヴァーバーグのエッセイで、私が面白いと感じたのは、次の二箇所である。
まず、(1)について興味深いのは、かねてから指摘されてきたとおりで、SF界は、よく言えば身内で寄り合う『友愛組織』、悪く言えば『群居性の点では悪名高い』ということを、当事者であるシルヴァーバーグ自身が認めている点である。
同じことは、日本のSF界にも言えるし、私はそのことを、かねてから日本SF界の「たこ壷」性として批判的に指摘してきた。
なぜなら、こうした「たこ壷性」は、周知の事実であるにもかかわらず、日本のSF界の場合は、そのことをシルヴァーバーグのように公然と正直に認めることはせず、あろうことか真逆にも、さもSF作家は、世界的な視野と未来を透視する視力を持っていると言わんばかりの、なれあいの身内褒めしかしないからである。
(2)の「追記」部分で注目すべきは、「SF作家も、世間並みの偏見にとらわれているものである」という当たり前の事実と同時に、シルヴァーバーグは、ここでそのことを「反省」しているのだけれど、日本のSF関係者は、その『群居性の点では悪名高い』という自身の弱点を公然と認めることをしたがらず、率直に反省することもしていないから、しばしば、おかしな「誤魔化し」や「隠蔽」に手を染めているのではないか、という点である。
そしてこれは、本稿の冒頭に書いた、
という部分とも関連してくる。
つまり、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは、『たったひとつの冴えたやりかた』に収められた作品を書くことによって、自分自身をコントロールしようとしたのではないか、ということである。
そして、そのことを私に確信させてくれたのが、本短編集『愛はさだめ、さだめは死』に収められた、サイバーパンクSFの先駆作品として名高い「接続された女」である。
この作品は、身も蓋もなく言ってしまえば、醜女が、培養された美少女の肉体(※ 要は、Vtuber用アバターのリアル版)にジャック・インして夢を叶えるのだが、やがてその「もともと魂を持たない、培養された体(美少女)」の方で恋をしてしまい、その結果として行き着いた「悲劇」を描いた作品だと言えるだろう。
だが、この作品で興味深いのは、この物語には「第三者としての語り手」がいて、その人物は、主人公の醜女には少しも同情的ではなく、「こうなることは最初からわかっていたのに、愚かな女だ」というスタンスを、最後まで崩さない点だ。
そして、そこに私が見たのは、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(以下「ティプトリー」と記す)という作家の、「二重性」である。
つまり、「ロマンティストとして、醜女に同情するティプトリー」と「醜女の愚かさを冷徹に評価するティプトリー」である。
これは、どちらかが一方がティプトリーの本質だというのではなく、たぶん、この「二重性」こそが、彼女の本質なのであろう。
そして、こうした「二重性」は、彼女の人生に、死ぬまでつきまとうことになる。
だから私はここで、単にティプトリーが「覆面作家」として「男性」を装ったという事実だけを指して「二重性」と言っているのではない。
最も肝心なのは、彼女が、自身の「死の選択」にあたっても、やはりこの「二重性」を利用した、という事実である。
先に指摘したとおり、彼女が自らの「死の選択」にあたって採用した、自作を利用した「自己鼓舞」という手法とは、言うなれば「自分をコントロールしようとした自分がいた」ということなのだ。
そして、衝撃的で悲壮な死を遂げたティプトリーとは、実のところ、冷徹にその演技をつけ、そのように演出した陰のティプトリーの操った、世間向けの「人形」であり、死ぬまで被り続けた「仮面」だったのではないか、ということだ。例えば、割腹死した三島由紀夫のそれと同様の。
ここで、念のために、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの死の状況を確認しておこう。
この、ある意味では、見事なまでの「覚悟の自殺(心中)」、言い換えれば「最愛の夫を自分の手にかけて安楽死させ、自分も自殺する」という「最後のミッション」は、心理的には決して簡単なものではなかった。
だからこそ「もうひとりのティプトリー」は、『たったひとつの冴えたやりかた』に収められた作品を彼女に書かせて、「君なら、ここに語られた主人公たちと同様に、見事な死を選ぶことができるはずだ」と、そう「鼓舞」したのではないか、言い換えれば「コントロール」したのではないかということだ。
そしてさらに言えば、私たちの目に触れた「見事な心中を果たしたティプトリー」の「美しさ」とは、「接続された女」と同様に「コントロールされて動いていただけの、魂のない美少女」と同種のものでしかなかったのではないか、ということである。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという作家を考える場合、この「二重性」と、それに基づく「コントロール指向」というものを無視できない。
浅倉久志は、前記の「訳者あとがき」で、ティプトリーの幼少時代を、次のように描いている。
一方、本書『愛はさだめ、さだめは死』の解説者である大野万紀は、ティプトリーの幼少時代とともに、その後の人生についても、次のように紹介している。
要するに、典型的な金持ちのお嬢さんであったティプトリー=アリスは、幼い頃から「野蛮な後進国」への旅行を経験して「野生動物」や「原住民の土人」たちに直接触れる機会を得て『様々な異文化、宗教、タブー、その他との接触によって〝同年代の普通の子供たちとの生活に深い疎外感を覚え、文化の相対性に悩まされる〟早熟で孤独な少女となった』のだが、『強大な両親(特に美しく、知的でエレガントな、その一方でライフルを肩にアフリカの大地を踏破し、巨象を狩るとてつもなくタフな母親)の影響力から自立しようとする激しい苦闘の日々だった。』とあるとおりで、「先進国の富裕層の価値観」に強く惹かれる部分も、当然のことながらあったのである。
つまり、彼女は、この頃すでに「支配者と被支配者」の両面性という「二重性」に引き裂かれた人間だったのだ。
だから、「金持ち結婚式」からは逃げ出して、自由なアーティスト生活をし、政治的には「左翼」であるアナーキストになったつもりだったのだが、戦争となれば、左翼として戦争に反対するのではなく、あっさり転向して陸軍に入り、「愛国女性」に転身する。
そしてそれからは、原子爆弾の開発プロジェクトたる「マンハッタン計画」にも浅からず関わったであろう陸軍情報部の軍人である夫と結婚し、戦後はおのずと『CIAの発足とともにその設立に力を貸すよう』にもなるのである。
もちろん、彼女の「生まれ」がこうした人生を否応なく強いたという側面はあるだろう。だが、いつまでも子供ではないのだから、大人になってからの彼女の人生選択の責任は、彼女自身が負うべきであろう。
つまり彼女は、幼いころの豊かな経験や、それに由来する「この世の差別的現実」、言い換えれば「二重性の現実」に対する認識を、突き詰めることができず、結局は「金持ち」らしい生き方を選んで、「金と力で、被支配者たちの抵抗をねじ伏せる」という「支配者の立場」を選んだ、ということなのである。
本書収録作の「男たちの知らない女」には、次のような描写がある。
つまり、ここに登場するミセス・パーソンズとは、ティプトリー自身の似姿なのである。
ティプトリーは『空軍情報学校を卒業し、写真解析士官としてペンタゴンの中枢で働き』、軍の偉い人と結婚し、その後は夫と共に『CIAの発足とともにその設立に力を貸』したような、言うなれば「CIAの母(の一人)」であり、現場には出なくとも「諜報謀略活動のプロ」の一人だということである。
当然のことながら、CIAが世界各国で行った謀略活動、具体的に言えば「暗殺」だの「左派政権転覆の謀略(クーデターの画策支援)」などということも、書面上ではあれ、確実に知っていたはずし、決済手続きくらいになら関わっていただろう。言うなれば、彼女の手は、間接的にならば確実に「他国の人々の、血に塗れていた」ということである(戦中の活躍からすれば、当然、ヒロシマ・ナガサキとも無関係ではあり得ない)。
だからこそ、「男たちの知らない女」の母娘は、地球を捨てて「異星人」の世界へ旅立とうとするのだ。地球人世界の、あまりにも醜悪な現実に絶望して。
また、同じ心理は、本書所収の別の作品「最後の午後に」にも見出すことができる。
ある惑星に不時着し、そこで運良く生き延びることができた人類の一団のリーダーは、その地に自分たちが確保した生活圏が、原住生物によって脅かされつつある現実を前にして、強力な能力でこれまで彼を何度か救ってくれた別の異星生物に対して「もう一度だけ、われわれを助けてくれ」と訴える。
だが、その異星生物は、その求めに乗り気ではないのか、なかなか反応してくれないのだが、彼の繰り返しの嘆願に対して、ついに「それが君の本当の望みなのか? もうこのようなことはやめて、すべての生命が共存できる場所へ行きたいとは思わないか」と尋ねてくる。しかし、その「救い」は、彼個人に限られたものであり、彼が救われるということは、家族や仲間を見捨てていくということを意味するのだ。
それで彼は、やはり仲間たちの方を選ぶのだが、この物語を「アメリカ人・アリス・シャルドン=ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア」のこととして考えれば、ここで考えられているのは、「ベトナム」だの「アメリカの裏庭(中南米)」だの「イラク」だの「アフガニスタン」だのといった国で、アメリカ人が現に行った「愛国」的行為と同じことである、というのが容易に理解できるはずだ。
「そりゃあ私だって、すべての国々の人たちと仲良く暮らせるものなら、そうしたいよ。しかし、現にわが祖国の国益がかかっており、同胞の命運がかかっているからには、私は、我が国に抵抗する原住民たちを抹殺することの方を選ぶ」と、そういうことなのであり、そういう話なのだ。
つまり、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという人は、そういう人生を生きてきたからこそ身元を隠そうとしたと、そう考える方が自然なのだ。
自らの手が血みどろであり、それを知ったら嫌悪を覚える人もきっといるだろうし、自分の書いた小説を「深読み」する者も、きっと出てくるだろう。一一それはいかにも不都合だから、あくまでも「無色透明な人間」を装おうとしたのである。かつて「諜報活動」に関わってきた時のように、あるいは、ミセス・パーソンズにように。
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したがって、そんな彼女の経歴を知りながら、
などと書いた大野万紀は、何も考えていない「SFオタク」か、そうでなければ「偽善者」であると断じても良いだろう。
ティプトリーが手を染めてきた『"正気ではできない"』ことというのは「SF小説を書きました」とか「男性と偽って、SF作家デビューしました」などというような能天気な話ではなく、『茶目っ気』で許されるような話ではないことくらい、「常識」があるならば、容易にわかる話だ。
したがってこれは、お茶目ぶって、いかにも「良い話」ふうに書き換えて良いことではないし、そんなことくらいわかっていたはずなのだが、「たこ壷社会」で無難に生きているような輩は、ユダヤ人の虐殺を黙認したかつてのドイツ国民や、朝鮮人虐殺を黙認して口をつぐんだ日本人みたいなことを、今も平気でやるのである。
ティプトリーがやったことは、結局のところ彼女の母親が、「ハンター」として象を撃ち殺した(支配的な高等生物が、下等生物の生殺与奪を自由にした)のと同じことに過ぎない。
幼い彼女は、人間と他の動物、先進国の人間と後進国の人間、支配者層と被支配者層といったこの世界における「二重性」の現実に疑問を感じ、そこから逃れようという気持ちも、確かに持ってはいたのだけれど、結局のところ、恵まれた「力の正義」の側から離脱できるほどには、強い人間ではなかったのである。
しかしまた、そんな自らの意志を貫くことのできなかった生涯だったからこそ、人生の最後においては、自らのその「二重性」において、自らをコントロールして、自らの「意志を貫いた人間」という自作自演の猿芝居を、その木偶人形に演じさせることになったのではないか。
アリス・シェルドンの死亡現場にあった遺体とは、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアが接続してコントロールした、「抜け殻の美少女」も同然だったと、そうも理解し得よう。
そう。〝物事が外観どおりであることはめったにない〟のだ。
(2024年3月15日)
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