見出し画像

森川慎也 『40歳から凡人として生きるための文学入門』 : 「凡人による凡人論」 という自己矛盾

書評:森川慎也40歳から凡人として生きるための文学入門』(幻戯書房)

本書を読むことにしたポイントは2つある。ひとつは、英米文学者の若島正が、本書について好意的な書評を書いていたこと。もう一つは、版元が幻戯書房であったことだ。

若島正の書評は、下のものである。

見てのとおり、この書評は『毎日新聞』の書評欄に掲載されたもので、このネット版は、有料会員登録をしないと、記事の冒頭部分しか読めない。

で、私が見かけたのもこのネット記事の方で、わざわざこの書評を最後まで読むために有料会員登録する気などなかったので、読んだのは書評の冒頭部分だけであった。
だが、それでもさしたる問題は感じなかった。と言うのも、肝心なのは、若島が本書を「好意的に評価しているか否か」であって、その中身ではなかったからだ。それほど私は、若島を信頼していたのである。

だが、その信頼にも問題はあった。なぜなら、私は若島の著作を読んだことがなかったからである。
短い文章ならいくらかは読んでいたし、それで、この人はなかなか良さそうだと感じ、また世評も高かったから、私は10年以上も前に若島の著書を数冊購入してはいた。だが、例のよって積読の山に埋もれさせていたのだ。

でまあ、そうした昔の印象が残っていたので、「若島が褒めるのなら、面白いかもしれない」と思って、これも例によって「ブックオフ・オンライン」で、中古に落ちてから購入した。幻戯書房の本は総じて値段が高く、本書も「本体2,400円+税」ということで、よく知らない著者の本としては、決して安くはなかったからである。

ちなみに、幻戯書房は、次のとおり比較的新しい出版社である。

『2002年2月7日、歌人・小説家の辺見じゅんが有限会社として設立した。社名は、辺見の父で角川書店の創業者である角川源義が自宅を、自分の名前の音読み「げんぎ」から「幻戯山房」と呼んでいたことに由来する。

2011年の辺見の死去後の代表は田尻勉。2012年10月1日より株式会社化した。』

(Wikipedia「幻戯書房」

そんな出版社なので、私が注目したのは、たぶん株式会社化されて、しばらくしてからであろう。
例えば、2019年には『メーゾン・ベルビウ地帯 椿實初期作品』なんていうマニアックな本を、立派な造本で出している。

『好評を博した『メーゾン・ベルビウの猫』から二年……日本幻想文学史に燦然と輝く『椿實全作品』(1982年刊)を改題、大幅増補のうえ復刊(初版800部限定ナンバーリング入)』

Amazonの同書紹介ページより)

当然、定価も高かったが、その値うちのある立派な造りの本だったから、私はこの出版社は「値段は高くても、それなりに中身のある凝った本を出す」のだろう、という好印象を持っていたのである。

ところが、実際に届いた本書は、46版カバー装の200ページに満たない薄い本で、なにやら自費出版本のような、いささか安っぽいたたずまい。これは定価で買わなくて良かったというのが、正直な第一印象であった。

だがまた、中身さえ良ければ、値段が高かろうが、造本がチープだろうが、それはそれでかまわない。幻戯書房だって、趣味で出版をしているのではないのだから、すべての本の蔵本に凝るというわけにもいかないだろう。つまり、前記の『椿實初期作品』みたいな例は、むしろ例外であって当然なのだと、そう自分に言い聞かせて読み始めたのだが、……やはり、装丁のチープさを裏切るほどの、値段相応の内容ではなかった。

もちろん、推薦者や出版社への信頼だけで、本書を購ったのではない。
本書のタイトルである『40歳から凡人として生きるための文学入門』ということ自体に、私は興味を持っていた。特に「凡人として生きる」というところ。

というのも、私自身も「ある意味では凡人だし、別の意味では非凡であり、そういうものとして生きてきた」からである。しかもそれは、「40歳」どころか、成人する前からである。
私の場合、自分が凡人でしかないと悟ったのは、アニメーターか漫画家になりたかったのに、私には「絵の才能がなく、物語作りの才能もない」ということに、成人する前に気づいたからだ。だから、そういう道には進めなかったし、進まなかった。その道にこだわることはなかった。私には、その才能がないということを自覚していたからである。
だからまた、好きに書ける趣味の文筆(批評)だけは続け得たのだ。

そして、そんな私にすれば、40歳を超えてから、やっと凡人が凡人として生きるというのは、いささか遅いような気がする。「もっと早く気づけよ」という気持ちがある。
だが、現実には、そんなものなのだろう。そんなものであるからこそ、多くの人は、40歳を超えてもなお「凡人」として生きられず、過剰な承認欲求に駆られて苦しむのであろう。
たとえば、最近は元気のない「ネット右翼」なんかも、彼らは自分にこれといった才能のないことを自覚していて、それでいて承認欲求を捨てられないからこそ、「時の権力者」や「日本の伝統」といった「他者」に依存し、しかも「群れる」ことで、自分が「強くなった」ような幻想に酔っていたのであろう。

しかしながら、「ネトウヨ」というのは、あくまでも極端な例であって、「群れたがる人」というのは、おおむね同じことだと思う。
要は、仲間同士で「自分たちのやっているのは素晴らしいことだ」とする「相互承認」に酔っているということであり、その意味では、そうした世間「主流」の人というのは、基本的に「凡人」なのだと言えよう。悪い意味で「一人では立てないからこそ、群れて支え合わなければならない」。また、それでいて、その自覚の無いところが問題なのだ。頭数の多さが「正しさ」の証拠だと、そう思い違いしがちなのである。

さて、本書で語られてのは、「凡人が凡人として生きるための、正しい考え方」ということだ。
「凡人は凡人でしかないんだから、それ以上のことを望むと苦しいだけ」。だから、まずは「自分は凡人である」ということに気づくことが重要。次に「凡人だからといって、何もいけないこと(否定されなければならないこと)ではない」ということに気づくこと。
では、なぜ「凡人で良い」のか、何か特別な価値を生み出す「才人」でなくても良いのかというと、それは「最終的には、この世界は無意味だから」だと、一一このあたりまでは、私がいつも書いていることと、ほとんど同じである。
ただし、この後あたりからが、ちょっと違う。

著者は、「無意味な世界に、意味を見出すのが文学である」と、文学研究者らしい方向に話を進める。しかし、多くの人は「人生が無意味なのなら、文学における意味創造は、幻想であり、その意味で無意味なのではないか。誤魔化しではないのか?」という、当然の疑問を持つことだろう。
そこで、著者の与える最終的な解答は「無意味で良いのだ。人間は、ありもしない意味を求める存在なのだから、それが最終的には幻想でしかなく意味が無いなどと言って否定しても、それこそが意味がない。人間は否応なく意味を求め、意味を創造する存在なのだから、それに開き直れば良いのである」と、これも、だいたい私と同じようなことを言っている。ともあれ、本書著者の結論としては『開き直りこそ凡人の生き方の極意』(P181)だと言うのである。

それはそうだと、私もこの結論自体は支持するのだが、ただ、その結論に至るまでの論証過程における主張に、引っかかるところが、いくつかある。

まず、肝心なところから先に書いておくと、「人生における意味付与」という問題について、著者は、E・D・クレムケの「人生は無意味であり、しかし人間は意味を求める生き物なのだから、否応なく意味を求め得ざるを得ない。したがって、そうであるのならば、私たちは可能なかぎり、価値のある意味を求め、それを創造するべきである」という主張を引用してから、これを否定する。
「それは凡人には不可能だし、そもそも意味には、上下貴賎はない。なぜなら、すべては無意味だという事実において、平等だからだ」と主張するのだ。
つまり、「凡人の中の凡人」であることを自負する著者は、クレムケの主張は、所詮「才人」のためのものであって、「凡人」のためではないので、本書の読者である「凡人」の皆さんは、同じ「凡人」である私の意見に耳を傾けるべきであると、そのように主張するのである。

だが、私は、著者のこの意見には反対であり、クレムケの意見の方にこそ賛同する。
なぜなら、究極的には「同じ無意味」であっても、「意味を求める(意味に価値を見出してしまう)人間の認識レベル」においては、「その範囲内」において「より深く高い意味」を求めるというのは「当然のこと」であって、決して「無意味ではない」からである。

つまり、本書著者は「究極的なレベル」と「人間的な認識レベル」とを混同しているのだ。
「人間的な認識レベル」は「究極的なレベル」に包含されるものでしかないから、「究極的なレベルによる価値判断」において「人間的な認識レベルにおける価値判断」は否定できると、そう単純に考えている。「人間的な認識の範囲内で、より高く深い意味を求めても無意味でしょ。だって、究極的には、ぜんぶ無意味なんだから」とそういうことなのだが、しかしこれは「論理の飛躍」でしかない。なぜなら、著者自身も認めているとおり、「究極的には意味はなくても、人間は意味を求める存在である」ということなのであれば、少なくとも「人間的な認識レベル」においては「意味には、高下浅深は有る」からである(例えば、究極においては、善悪規範は存在しなくても、人間の主観においては、善悪の存在は否定し得ない)。

では、なぜ著者は、「究極的なレベル」と「人間的な認識レベル」を混同してしまったのかというと、それは著者が「凡人」だからに他ならない。
「凡人」だから、「究極的なレベル」で、すべてを裁断できると「思い違い」してしまったのだ。

私が著者の主張として、最初に引っかかったのも、この点であった。つまり「議論レベル(論理階梯)の混乱」である。

(図版は、上下ともに「NLPニューロ・ロジカル・レベル(神経論理レベル)の効果的な利用法」からで、ここでは、あくまでも「イメージ」として使用した)

著者は本書の初めの方で、次のように高らかに宣言する。

『 私という「ブレない凡人」

 凡人として生きる覚悟を持ちましょう、と提案するからには、当然、著者である私が凡人でなければ話にならない。非凡な著者が、凡人であることを受け入れよう、などと言ったととろで説得力はないし、そもそも凡人はそんな提案に耳を貸さない。
 あまり赤裸々に語ると周りの人に迷惑をかけるので、端折って話すけれど、私もまた正真正銘の凡人である。
 私は自分の凡庸さを知り尽くしている稀有な凡人である。なぜ稀有なのか。大半の凡人は自らの凡庸さと向き合わないからである。すぐに一流に憧れて、自分もなれるかも、と密かに期待してしまう。これも凡人の性である。私はその点でブレない凡人である。
 もちろん自分の人生もまた平凡だと自信を持って断言できる。私があまりにも堂々とそう断言するから、そんな人生で幸せなんですか? と聞かれることがあるが、私はそもそも幸福に関心がない。幸せになろうと思って生きているわけでない。じゃあ、何のために生きているのか。理由なんてない。生きているから、としか言いようがない。それでも楽しいことはある。平凡な人生を穏やかに軽やかに生きるにはどうすればいいのかと考えるのは楽しい。考えると言っても、そればかり考えているわけではないし、この先も同じように考え続けるという保証はない。あくまでも現時点ではそうなのである。だが、大多数の人が凡人なのだから、凡人について考えることは大事な仕事だと思っている。』(P28)

一見もっともらしくはあるけれども、これを著者自身のロジックで批判するならば、「凡人であることを相対化し、さらにはその生き方を指導できる者は、凡人ではない。凡人とは、自身を相対視できない者のことを言うのだから」と、こうなる。

つまり、著者は、読者に向かって「私も皆さんと同じ凡人なんですよ。だから、凡人は凡人の意見に耳を傾けるべきです。なぜなら、才人の凡人への助言というのは、どうしても才人にしかできないことの要求になってしまうからです」とこう言っているわけだが、そう言っている本人がすでに「凡人の中では才人の部類」でしかないのだ。

つまり、世に言う、わかりやすい「才人」、例えば、将棋の藤井聡太や野球選手の大谷翔平のような「わかりやすい才人(一流)」ではないし、当人も認めるとおり、学者の中でもパッとしない人、つまり「才人(一流)」ではなく「凡人の部類」であったとしても、やはり、自分のことを「凡人」だと認識できないような「正真正銘の凡人(三流)」たちに比べれば、本書著者は「才人」の部類なのだ。「才人の中の才人(一流)」ではないが、「凡人の中の才人(二流)」ではあるのである。だから、一応は学者にもなったし、本も書けたのだ。
要するに著者は「才人の中の、才人と凡人」「凡人の中の、凡人と才人」という「相互含有的な多層性」の複雑さを無視しているのである。

したがって、本書の著者の誤認とは、人間が「才人と凡人に二分できる」と考えている点にある。
無論、著者は周到に「人間は、才人と凡人に二分できるわけではなく、大半の人は、その両極の中間に位置する」と認めてはいる。
しかし、著者にすれば、その「中間領域」こそが「凡人」だということでもある(二流こそが、凡人の大半)。つまり、才人(一流)とは「ごく一部」であり、「それ以外(二流と三流)は、すべて凡人」だという考え方なのだから、要するにこれは「才人と凡人(一流とその他)の二分」ということでしかないのだ。

では、どうして著者は、実質的に「才人と凡人に二分している」にもかかわらず、その事実を認めようとしないのか。
それは「凡人(二流以下)を指導する私は、才人(凡人の中の才人=一流に近い二流)である」と認めてしまっては、本書の「凡人のことは凡人に任せろ」という基本的な構えが、崩れてしまうからである。

だから、著者はあくまでも、自身を「凡人」だと強弁しなければならない。「凡人の中では、相対的に才人」であると、そう認めるわけにはいかないのだ。だから「才人と凡人に二分」して、是が非でも、自身を「凡人」の側に属する者だと、そう言い張らなければならなかったのである。

だが、ここまで読んでくれた人には、もはや明白なことのはずだが、著者の言う「私は凡人である。だから凡人のことは、才人よりもよくわかる」というのは「自己矛盾を孕んだ主張」つまり「錯誤」でしかない。

では、本書著者は、自身が「凡人の中の才人」だとわかっていながら、あえて「凡人ぶっている」のだろうか?

私はそうは思わない。
著者は本気で、自分を「ブレない凡人」だと考えて、「満足」しているのである。
だがこれは、「才人」という言葉を「ブレない凡人」という言葉にすり替えただけでしかない。つまり、要は「私はそこいらの凡人とは違うのだ」と思っている、ということなのである。

しかしまた、そんな自分の「本音」を十分に自覚できていないところが、著者の「凡人性」、凡人の凡人たる所以なのである。その意味で著者は「ただの凡人」なのだ。

これまでにも何度となく書いてきたことだが、私のオリジナル格言に、

「本を読むほどの人は、誰でも自分を賢いと思っているものだ」

というのがある。
ここで言う「本」とは、漫画などを含めた娯楽書全般を含んだものである。

つまり「誰だって読める、わかりやすい本」ばかり読んでいる人だって、「本を読んでいる」という事実だけで「自分はそれなりに賢い」と思っているものなのだ。
なぜなら「娯楽書の中から真理を読み取る力が、自分にはある」と思っている人が、その大半だからである。

では、なぜそう思うのか(自信過剰なのか)というと、彼らは「難しい本」を読んで、自分の「無能」の現実に直面することをしないし、たまにしても「難しければ良いというものではない」とか「もっと平易に書けよ。難しく書けば良いというものではない」とか、翻訳書だと「訳文が悪い」などと言って、自身の「無能」と直面することを避け続けるからである。

ともあれ、本書著者もまた「私は凡人だ」と言いながら、実のところ「周囲の凡人」たちとの差異化を図ることで「ただの凡人ではない」と思い込もうとしている。だからこそ「凡人のことは、凡人の私に任せろ」などという「非論理的」なことを主張してしまうのだ。
そして、著者は、自身のそんな「度し難い凡庸さ」ということに気づいていない。

だから、本書は、大筋の主張は間違ってはいなくても、あちこちで「詰めが甘い=詰められていない」から「凡書」ということにもなってしまうのである。

そして、結論として言うならば、他人に意見するのなら、「自分もあなたがたと同じ凡人だから、言わせていただきますが」などという、ケチな予防線としての「誤魔化し」などせず、「私はあなたがたよりも物事が見えているから、言わせていただきます」と、その発言責任を引き受けるべきなのだ。

「自分は凡人である。しかし、この文章を読んでいる読者の大半よりは、物が見えていると思うから、こうして文章を書いているのだ。その意味では、私は非凡と呼んでも良い存在なのだ」と、読者の反発を覚悟の上で、そう堂々と書いて、その反発と正面から対峙すべきなのである。

一一だがまあ、それが出来なかったのも、「凡人」なればこそ、なのではあろうが。



(2024年7月2日)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


この記事が参加している募集