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野﨑まど 『小説』 : 「小説」を読む意味とは?

書評:野﨑まど小説』(講談社)

小説のタイトルが、そのものズバリ『小説』なのでは、いったいどんな小説なのか、見当もつきかねる。
たぶん、野﨑まどは「(ラノベ出身の)SF作家」に分類されている人なのだろう。私自身は、以前に『タイタン』というSF作品を1冊読んだだけだが、これはなかなか面白かった。

だがまた、すぐに別の作品を読もうと考えるほど、その作家性に惹かれることもなかった。
『タイタン』の場合は、あくまでもその作品に込められた「アイデア」が面白かったのであって、「文体」も含めた総合的な部分での「作家性」には、あまり惹かれなかったのだ。端的に言って「エンタメすぎる(軽い)」と感じたのである。

しかし、そんな「SF」寄りの作家である野崎まどが、わざわざ『小説』というタイトルの長編小説を書いてきたのだから、本作が「SF小説」だとは限らない。つまり、いわゆる「ジャンル小説」ではない可能性だって十分に考えられるのだ。
実際、本書の帯(前面と背面)には、次のような、いささか思わせぶりな惹句が連ねられている。

『「物語に救われ、読書に呪われたのか?」
 君はなぜ、小説を読むのか?

『 読むだけじゃダメなのか。

五歳で読んだ『走れメロス』をきっかけに、内海集司の人生は小説にささげられることになった。一二歳になると、内海集司は小説の魅力を共有できる生涯の友・外崎真と出会い、二人は小説家が住んでいるというモジャ屋敷に潜り込む。そこでは好きなだけ本を読んでいても怒られることはなく、小説家・髭先生は二人の小説世界をさらに豊かにしていく。しかし、その屋敷にはある秘密があった。
それでも小説を読む。
小説を読む。
読む。

宇宙の
すべてが小説に
集まる

帯の背面に書かれた『五歳で読んだ『走れメロス』をきっかけに(…)その屋敷にはある秘密があった。』が、本書の序盤のあらすじだと考えてよいだろう。
だが、これだけでは、本書が「ミステリー小説風」の「謎で引っ張る物語」だとはわかっても、それが「ミステリー小説」そのものなのか「ミステリー小説風の非ジャンル小説」なのか、あるいは「SF小説」なのかの判断まではできない。これだけでは、物語がどう転んでいくかまでは見通せないのである。

だから、少なからぬ読書家が「本書を読むべきかどうか」と、躊躇を覚えることだろう。
特に、『(小説を)読むだけじゃダメなのか?』というテーマについては、作者がどんな回答を出してくるのか、とても気になるところだからだ。

しかし、普通に考えれば「小説は、読むだけでもかまわない」し、まさか作者が「小説を読んでるだけじゃダメだ」と主張するわけもないから、その回答が「小説は、読むだけもかまわない」というものだというのは、初手から見え透いている。
ならば、肝心なのは、作者は、どういう意味合いにおいて「小説は、読むだけもかまわない」と主張するのか、「読むだけ」を、どのような根拠で「正当化」してみせるのか、そこが読みどころとなるだろう。

私は、このように考えて本書を読んだのだが、一一はたして、作者が出した回答とは、どのようなものであったか? そして、私はその回答に満足できたであろうか?

本作の「作り」を、簡単にまとめるならば、

「二人の読者好きの少年の友情物語に、謎の小説家の存在を加え、それにSF的な仕掛けを施し、道具立てとしては、メタフィクション的にファンタジーの要素も加えた作品」

とでも言えよう。
つまり、純粋な「SF小説」ではないけれども、SF的な仕掛けを施した、ラノベ的に「ジャンルクロス的な小説」とでも言えようか。

その意味で、基本的には「エンタメ小説」ではあるけれども、それでいて、前記のような「過剰なテーマ性」も持っている。
だから、私が、本書の価値を評価するとすれば、それはもっぱら、その「テーマ性の掘り下げ」を問題とするしかないのだが、そちらはどうだったかというと、正直いって、「物足りなかった」
若い人なら、これでも「おっ!」と驚かされるかもしれないが、いろんなジャンルの小説を読み、小説以外の本も読んできた者(すれっからし)としては、作者が本書で語った「小説を読むことの意味」というのは、あまりにも「片手落ちに手前味噌なもの」だとしか思えなかったのである。

以下では、本作のテーマである『(小説を)読むだけじゃダメなのか?』という問いに対して作者の与えた「回答」に限定し、これを論評することにしよう。

【※ 以下では、本書のテーマに関してネタを割りますので、未読の方はご注意ください】

作者は、『(小説を)読むだけじゃダメなのか?』という問いに対して、当然のことながら「読むだけでいい」という回答を与えている。
では、その理論的な根拠はというと、次のようなものだ。

・ 宇宙の発生から生命の誕生、そして人類の誕生とその進化まで、すべてに一貫して流れているその本質とは、物事が凝集しながらも、内と外とを隔てる構造を構築し、そして外から内へと物事を取り込むことで成長し、そして死んでいく、ということである。
・ つまり、こうした根源的な法則性から見て、「読書する」とは、自分の中に無かった「意味」を外から取り込んで、内側を豊かにし、成長するということだったとわかる。
・ しかし、「外側にある実在物(や、それについてのあれこれ)」には物理的限界があって、人間はそれに満足できなかったので、「嘘」をついて「虚構の世界」をでっち上げることにした。つまり「虚構(フィクション)」を作ることで、この世界から「物理的限界」を取り払うことで、無限の豊さを産んだのだ。そして、その最たるものが「小説」なのである。
・ したがって、「小説を読む」という行為は、生物が、自分の内側には無いものを「外から取り込んで成長する」という意味において、それ自体で価値のあることである。だから、小説を読むことで小説を書けるようになるとかいった「実利」的なものは、副産物的なものでしかなく、別に、なくてはならないもの、などではない。「小説を読む」という行為は、それ自身で「純粋な自己贈与」なのだ。

一応、これはこれでひとつの意見(見解)であり、決して間違いではないだろう。一一だが問題は、こうした「読書という自己贈与」というのは、何も「小説を読むこと」だけには限らない、という事実(現実)だ。

作者は作中人物の口を借りて、現実(の総量)には限界があるから、人間は「虚構(フィクション)」を作ったと語るが、そもそも人間には「現実のすべてを知ることはできない」
だからこそ、各種の「学問」があり「学術書」が存在する。それらはすべて「現実」を問題としたものであり、決して「虚構」ではないのだ。

また、こうした、もっぱら「現実を理解しようとする学問」においてさえ、「限界のある人間の知性」における「解釈」が入る以上、そこで語られている「解釈としての仮説」は、「現実」だか「非現実」だかの区別を、厳密につけることはできない。
つまり、私たちが「物理的な現実」だと思っていることさえ、実は「誤解による非現実」であり、一種の「虚構」でしかないのかもしれない。例えば、「エーテル」の(非)存在のように、その「虚構性」が明らかになることだって、現にいくらでもあるのだ。

つまり、私たちは「外から意味を取り込んで豊かになろう」とする存在だというのは事実だけれども、それが「読書」という行為に限定してさえ、「小説」である必要性などないのである。だから、「小説」を読まない人など、いくらでも存在するのだ。

したがって、『(小説を)読むだけじゃダメなのか?』という問いに対しては、たしかに「読むだけでいいんだよ。その分、その人は豊かになる」と言えはするけれど、「小説を読まない人は、豊かになれないのか?」と言えば、無論、そうではない
「小説」ではなくても、「学術書」でも良いし、「読書」に限らず、「映画」でも「スポーツ」でも何でもかまわない。そこには、多かれ少なから「意味の取り込み」としての「学習」があるのだから、どのような「意味」に価値を置くかという問題はあるにせよ、すべての人間活動は、多少なりとも「意味の取り込み」としての価値を持っており、「小説を読むこと」に、特権的な価値があるわけではないのだ。

ところが、本書作者は、「小説」は「文字だけで作られるもの」だからこそ「虚構として純粋」であり、その意味で、特別な価値があると、そう主張する。
たしかに、「小説」は「文字だけで作られるもの」だからこそ、その意味で、特別な価値があるとは、言えるだろう。

しかしながら、例えば、「文字だけ」ではない「画像」表現の加わる「漫画」や「映画」が、「小説」に劣る「不純な表現」なのかと言えば、もちろんそうではない。
「画像」があればこそ、「小説」では表現しにくいことを、いとも容易く表現することもできるという長所を持っているのだ。

つまり、各ジャンルは、それぞれに「一長一短」があるのであって、どのジャンルの「表現」が、「純粋か?」「価値が高いか?」などという問いへの回答は、何に価値をおくかで、如何ようにも変わってくるものでしかないのだ。

だから、作者が「小説作家」として、「小説」に特別な価値を与えたいという気持ちはわからないではないけれども、どんなジャンルの作品であれ「特別といえば、すべて特別」であり「まったく同じものは二つとしてない」のであり、その意味で、問われるべきは「どのジャンルが素晴らしいか?」ではなく、「そのジャンルの中で、どの作品が優れているか?」ということでしかないのだ。その評価が、また難しいとしても、である。

ジャンルとしての「小説」と、別ジャンルとしての「漫画」や「映画」、あるいは「学術書」を比較して、こっちが「こういう意味合いにおいて上だ」などと主張してみても、その手前勝手な「意味付け」において、所詮そんな主張は、「身内向け(ウケ)」の価値しか持たない。

したがって、本書での作者の主張も、所詮は「小説」畑に引きこもった、自己正当化の域を一歩も出るものではない。

そうした意味で作者に必要だったのは、その視野を「小説」以外にも、もっと広くして、真摯にそれらと向き合うことだったのだ。

このままでは「身内向けの、壮大だがケチな大ボラ」の域を出ないものだ、ということにしかならないのである。


(2025年2月4日)


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