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ファンも認める〈いけ好かない女〉北村紗衣 : 「性格の多様性」って何?
ものすごく面白い「note」記事を見つけたので、皆さんにもぜひ読んでほしいと思い、ご紹介させていただくことにしました。その記事とは、「いちじく」さんという方の書かれた、次のレビューです。
・「別にいい人じゃなくても、どんな性格してようとも、こっちの勝手じゃないか」という"性格の自由"を北村紗衣さんの本から学ぶ
「いちじく」さんは、
『名前は橋本治の作品『桃尻娘』の登場人物「無花果少年」から/図書館司書→ITエンジニア/社会学/アカデミズム×サブカルチャー×温泉好き』
と「自己紹介」なさっている方で、「図書館司書」をなさっていたようだから、かなりたくさんの本を読まれているのでしょう。また、橋本治の『桃尻娘』を読んでおられるくらいだから、かなりベテランの読書家ではないかと思います。
私もずいぶん昔『桃尻娘』を読んだのですが、いつだったかなと昔の読書ノートをひっぱり出してみると、昭和60年(1985年)5月と判明。
私が読んだのは、たしか単行本ではなくて、すでに文庫版だったと思って調べてみると、はたせるかな1981年には講談社から文庫版が刊行されており、それで読んだのは間違いない。では、初版単行本の刊行はいつなのかと調べてみると、なんと1978年(昭和53年)。すでに還暦を過ぎた私でさえ、まだ11歳の頃。
私は、活字の本を読み始めたのが遅くて、高校生になってからだったので、これでは逆立ちしても、初版の単行本を刊行時に読むこともなければ、その評判を知ることもなかったでしょう。
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ともあれ、『桃尻娘』は映画化もされたし、私も高校生になってから、どこかでその評判を耳にしたのでしょうね。すでに文庫化されていた『桃尻娘』を読んでみると、これが面白かった。
それで、続けてその続編である『その後の仁義なき桃尻娘』を読み、翌年(1986年)には、異色ミステリとして話題になった『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』、その翌年(1987年)には『帰ってきた桃尻娘』、エッセイ集『蓮と刀』、『桃尻娘』のスピンオフ作品である『無花果少年と瓜売小僧』、先駆的な少女漫画評論集として評判の高かった『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』、初期エッセイ集『秘本世界生玉子』を読んでいます。
その後も、平成4年(1992年)に小説短編集『鞦韆』、平成10年(1998年)にはイラストレーター岡田嘉夫との共著『女賊』、平成11年(1999年)に長編評論『宗教なんかこわくない!』(オウム真理教による地下鉄サリン事件の4年後)、平成17年(2005年)には、漫画家さべあのまとの共著『花物語』と読んでいます。
このように、今ふりかえってみると、私は意外にも、橋本治をけっこう読んでいました。私の中ではっきりと印象に残っているのは、『桃尻娘』と『無花果少年と瓜売小僧』は面白かったというのと、『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』が期待外れだったということだけ。あとは、ほとんど忘れていたので、まあまあ程度な感じだったのだと思います。
閑話休題。
ともあれ、『桃尻娘』の「無花果少年」からハンドルネームを採ったと聞いて、つい嬉しくなり、長々と脱線をしてしまいましたが、もう死ぬまで橋本治に書くこともないかもしれないから、この機会に書いておくのも、個人的には悪くはなかったと思います。
でも、本稿で肝心なのは、「いちじく」さんのエッセイです。
一一と言いますか、正確には、これは「書評」。われらが「北村紗衣」の第2著書『お嬢さんと嘘と男たちのデスロード ジェンダー・フェミニズム批評入門』を紹介した文章なのですが、これが「北村紗衣」論として、なかなか秀逸だったのです。
どう「秀逸」なのかと言いますと、このレビューの趣旨は「いけ好かない性格だっていいじゃないか!」というもので、直接、北村紗衣が「いけ好かない性格の女」だとは書いていないものの、そう言っているも同然、というところが、なかなか心憎い。
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私はこれまで、北村紗衣のファンというのは、Twitter(現「X」)のフォロワーが「5万人」もいるとは言っても、所詮ろくに本を読んでおらず、読解力のない輩ばかり。だからこそ、北村紗衣の書く「クソつまんない本」でも「面白い」などと言えるのだと、そう完全否定してきました。
ですが、北村紗衣の著書に「学んだ」とおっしゃる「いちじく」さんの北村紗衣評価には、きわめて例外的に、私も完全に同意なのです。
そう。北村紗衣はどこからどう見ても「いけ好かない性格の女」なのに、ファンは北村紗衣を擁護しようと、北村紗衣が「いけ好かない性格の女」ではないかのように、無理に褒めようとするから、そもそもそんな評価には「嘘」があって、読むに堪えない北村紗衣評にしかならなかったのですね。
その点、さすがはベテランの読書家だけあって、「いちじく」さんは、北村紗衣が「いけ好かない性格の女」であることは「もはや否定できない事実」だと暗に認めた上で、このレビューでは「いけ好かない女だっていいじゃないか!」と、「北村紗衣の、いけ好かない性格が嫌いだ」と言う、世の平凡な男たちに、逆捩じを喰らわせようという、なかなかユニークな挙に出たのです。
ただし、「いちじく」さんの、このレビューの「難点」は、「性格の多様性が、認められるべきである」と、そう主張なさっているところにある。こんな感じです。
『■「性格」の多様性
「多様性」が叫ばれている昨今ですが、人の「性格」に関して「多様性」を認めていこうという意識は、まだ少ないのではないでしょうか。
世の中には外交的、活発といった性格のほうが良しとされ、内向的なほうが評価が低い。女性だったら従順でおしとやかのほうがモテる、男性だったら明るくて活発なほうがリーダーに抜擢される。
そういった「性格」のある種の「格付け」に対して疑問を持つ人は、まだまだ世の中に少ないのではないかと思います。
実際会社でも人事評価で「積極的」「主体的」なほうが評価される、などの傾向があるでしょう。
しかし、そもそも性格や人間性に優劣をつけること自体おかしなことではないでしょうか。
■「性格」の自由と権利
人には、人それぞれが持った固有の性格というものがあります。一人の人間が、どんな人間でどんな性格であろうが、そもそもその人の自由ではないでしょうか。
そこに人からの好き嫌いという価値判断はあるかもしれませんが、別にどんな性格をしていようが、それは本人の自由です。その人がその人でいることの権利を止めることなど、誰にもできません。
自分の性格に関して、他人の評価など知ったこっちゃないのです。たとえいけすかない人間であっても、それがその人なので、仕方がない。自分の人間性を変えてまで、あるべき性格に合わせる必要はないのです。』
見てのとおり、「いちじく」さんは、「多様性」が叫ばれる世の中になったのだから、性格だって「多様性」が認められて「いろいろあって良いじゃないか」と、そう主張なさっています。
でも、「性格」というのは、もともと「十人十色」に多様なものであって、その「多様性」とは、認めるも認めない、明白な「事実」だと、私は思うのです。
言い換えれば、人間の性格が「多様」だという「事実」が認められないような人は、頭がおかしい。
ロボットやアンドロイドと違って、人間には「同じ性格」がインストールされているわけではないのですから、むしろ否応なく、性格というのは、いろいろでしかあり得ない。否応なく、多様なのです。
「いけ好かない女だっていいじゃないか!」と言ったって、それはもともと、良いも悪いもない事実なのだから、そんなことを訴えても意味がない。
では、「いちじく」さんは、何が言いたいのかというと、「人間にはいろんな性格があるのだから、この性格が好ましいとか、あの性格は嫌いだ、などと言わずに、どんな性格でも認めましょうよ。それが、性格の多様性ってもんでしょ? 北村紗衣が、いけ好かない性格の女だって良いじゃない。それが彼女の個性なのだから」と、大要そういう話なのです。
しかし、「いちじく」さんはここで、「性格の多様性が、事実として存在する」ということと「多様な性格表現に、優劣をつけずに評価する」ということを、完全に混同なさっています。
一般に「好ましいとされる性格」も「いけ好かないとされる性格」も、それはその人の「個性」なら、それが、半ば否応なく表出されてしまうというのは、良い悪いの問題ではなく、半ば避けようのないことでしかない。
だからこそ、この世の中には、神様のような善人もいれば、冷酷無比な殺人鬼もいて、しかしながら、それらも含めて、いろんな性格の人がいて、それが生物としての「多様性」を保証し、人間という「種」を生き延びさせてもいるのです。
「サイコパス」的な性格、つまり「情に流されない、徹底的に功利的に考えられる人」は、軍の司令官や企業経営者には向いているかも知れない、などと言われたりしますが、だからこそ、そういう人も、大勢いては困るけど、ぜんぜんいないというのも、やっぱり困る。
それが、人間にも当てはまる、生物としての「多様性」なのです。
しかしながら、「いろんな性格の人がいる」ということは、当然のことながら「いろんな価値観の人がいる」ということでもあって、「いちじく」さんのように、その「いろんな価値観の表出を認めるべきだ」とおっしゃるのであれば、当然のことながら、北村紗衣のことを「大好きだ」と言う人の存在も、「大嫌いだ」と言う人の存在も、共に認めないわけにはいきません。それこそが、評価・見解の「多様性」だからです(「言論・表現の自由」とも言われます)。
そもそも、「いちじく」さん自身、男性か女性かは存じ上げませんが、「いけ好かない性格の、異性または同性」を 「好ましいと感じる性格の、異性または同性」と「同じように評価して、同じように扱いなさい」と言われたって、そんなことはとうてい無理でしょう。
無論、なかには北村紗衣のような「いけ好かない女」からキツいことを言われて虐められたい、というような、マゾヒスト男性や女性もいるでしょう。
ですが、それはあくまでも例外的な「趣味・性癖」あるいは「セクシャリティ(?)」であって、それをすべての人に求めるというのは、それはそれで「全体主義」的な押しつけでしかなく、どう考えたって無理(人道に反します)。
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たしかに、「いちじく」さんがおっしゃるように、人間にはいろんな性格の人がいるのだし、それを、意に反して無理に隠す必要もない。
たとえそれが、世間一般的には「いけ好かない性格」だと評価されるものであったとしても、北村紗衣のように、堂々とそれを表現すれば良いのです(ただし、著作上では、それをそれなりに隠しているけれど、まあそこはそれ)。
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したがって、温厚な性格の人の「いくら事実だとしても、いけ好かない性格だとしても、女性をつかまえて、公然と『いけ好かない性格の女』だなどと言ったり書いたりすべきではない」という「考え方」もありであれば、逆に私のように「いつも言っているように、私は『駄作は駄作としか評価しようがない』という『坊っちゃん』みたような性格の人間なので、北村紗衣を『常識的な性格の女性だ』とか『いけ好かなくはない性格の女性だ』などとは、口が裂けても言えない。そんな白々しい嘘やお世辞なんか、死んでも口に出来ない」などといった、いささか「困った性格」の人間も、「いちじく」さんの立場では、同じように「評価しなければならない」「選り好みをしてはいけない」ということになってしまう。
でも、そんな(対照的な二者を、同様に評価するような)ことは、「当たり前の人間」には、絶対に「不可能」なのです。
つまり、「いちじく」さんは、「多様性」ということの意味を、完全に取り違えている。
一般に言われる「多様性を認めよう」というのは「色々な生物や人が存在すること、存在して良いのだということを認めよう」という「理想としての原則論」であって、その「中身」を問うことなく、何でもかんでも同じように評価して、同じように処遇しようということでは、決してありません。
例えば、いくら「生物の多様性」が認められなけれなならないと言っても、人類の脅威となる「病原菌」だの「病原体」だのといったものは、その「撲滅」を目指さざるを得ない。
「いや、私は、コロナウィルスもエボラウィルスも梅毒の病原体も、ぜんぶ差別せずに、自分の体で飼って見せます」とか言われても、そんな人は、人間社会の中で生活してもらうわけにはいかない、ということになるしかありません。
つまり、どんな性格であろうと、それはそれで仕方がないし、それは当人の自由意志において、好きに表現すれば良いのですが、しかしそれは「それを、すべての人が、肯定的に評価しなければならない」ということにはならない。
そんなことは不可能だし、不可能なことを他人に強制することはできない。そんなことをしたら、むしろその方が「犯罪」です。
だから、「北村紗衣が、いけ好かない性格もろ出しの女性」であっても、それは北村紗衣の勝手なのですが、しかし、そんな性格を「肯定的に評価しろ」などと、人に求めることもできない。
当然「あんな、(ファンですら認める)いけ好かない性格の女は、いけ好かない」と評価する人が大勢いても、それは仕方がないことだし、それは「いちじく」さん自身も認めざるを得ないところなのです。なぜなら、「いちじく」さんだって、北村紗衣の「いけ好かなさ」は容認できても、容認できない「いけ好かなさ」は必ずあるはずだし、それを容認することなんてできないはずだからです。
自分が出来もしないことを、他人に求めるべきではない。
したがって、「いちじく」さんもおっしゃっているとおり、北村紗衣は、たしかに「いけ好かない性格」です。
しかし、それでも、その「いけ好かなさ」まで含めて「好き」になれるのなら、それに越したことはありません。
ゴキブリでもナメクジでも、気持ち悪いと感じるよりは「可愛い」と思える方が、気持ちよく生きられるだろうし、彼らも無用の殺生の対象にならなくて済みます。
だけど、それをすべての人に求めるのは、やはり無理だし、そもそも間違いなのです。
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やっぱり、いけ好かないと感じるものを「いけ好かない」と言いたくなるのは、自然なことだし、時には必要なことでもあるのです。
「ヒトラーは嫌い」とか「天皇は神様じゃない」「太陽は地球の周りを回ってなんかいない」と、そう世間の常識に抗ってでも、自分の実感を正直に語れる人が、この世界には是非とも必要なのです。そうではないでしょうか?
まあ、ほかでもなく私自身も「いけ好かない性格」の一人なんですが、北村紗衣とは「違うパターン」の「いけ好かない性格」だとは認めてほしい。
「いけ好かない性格」にもいろいろある、「多様性」があるのだと、その区別は、是非ともつけてほしいのです。
別に、私を好きになってほしいとか、高く評価してほしいなどとは言いません。ですが、あんなのと同じにだけは、扱って欲しくないのです。
繰り返しますが、「いけ好かない性格」にも「多様性」が、事実としてあるのです(断言)。
(2025年2月9日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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